「背中」の後日。
近←妙です。
大雑把ではありますが身体欠損な描写ありますのでご注意を。
近←妙です。
大雑把ではありますが身体欠損な描写ありますのでご注意を。
あたたかい背中
こちらの顔を見るなり年甲斐もなくはしゃぐあの男の顔を見かけなくなって半月が過ぎた。日中、食料品の買い出し帰りに街中を歩いていると、市中巡回中だった真選組副長と十番隊隊長と鉢合わせする。知人ではあるが友人とまではいかない間柄である。知らぬ顔というのも後味が悪いと、妙は会釈した。
「……ご苦労様です」
微妙な間に土方の片眉が上がった。土方は、すれ違おうとした妙に声をかける。
「近藤さんなら出張中だ」
わざわざあの男の事情を聞かされ、妙の片眉が引き攣る。
「ゴリラのことなんて聞いてませんけど?」
瞬く間に張り詰めてしまった空気に原田の顔色が悪くなる。隊服の内ポケットから煙草とライターを取り出した土方は、咥えた煙草に火をつけた。煙を吐き出すと涼しい顔で言う。
「そうか?売上成績が下がったってツラしてるぞ」
言われて妙は利き手を片頬に当てた。募っていた苛立ちが無意識に表情に出てしまっていたのだろうか。
「あら、そう見えます?」
「ああ。おまえさんの上位キープなんざあの人で持ってるようなモンなんだろう?」
図星を指されたが、微笑んで回答する。
「そんなことありませんけど」
「まァ、そんなこたァどーでもいいが……」
笑顔の仮面を被っていることを見破っているかのような物言いに、妙のこめかみには青筋が立つ。原田は何を発することもなく、青い顔でふたりを見守っている。
「今回の出張、短期のはずだったんだが予定より長引いてる。アンタ、あの人に万が一のことがあったらどうする?」
土方の真剣な面持ちに妙は肝を冷やした。彼が慕う上司であり友人でもあるだろうに、よく縁起でもないことを言えたものだ。
「どうもしませんよ。あの人よりもいいお客さんを探して親しくなるだけです」
にこりと微笑んで続ける。
「あなた方こそ、あの人に万が一のことがあったらどうするんです?」
「俺たちは……」
と、妙の様子を窺った。笑みを浮かべる肌の血色が先ほどよりくすんで見える。土方は、吸っていた煙草を携帯灰皿に片付けた。
「一介の町娘より腹決まってるさ。生半可な気持ちで真剣を握っちゃいねェ。……悪かったな、変なこと訊いちまって。忘れてくれ」
土方は先を行き、原田は妙に会釈して先に行った上司の後を追った。残された妙は、買い込んだ食材が詰まったビニール袋を提げたまま佇んでいた。行ってしまう土方と原田の後ろ姿が見えなくなると、我に返って帰路に就く。
あの男がいなくなる。ある日突然いなくなる。父や兄のようにいなくなる。記憶の中でのみ生き続け、忘れることもできず、再会することもできず、自分が生きている限り、彼らはずっと自分の心の中でのみ生き続ける。
妙は逃げ帰るように自宅へ入った。通ってきた道に散らしてきた不安に追いつかれないよう、それを断ち切るように玄関戸を閉める。
土方も人が悪い。あの男に万が一のことがあれば一番それを赦しはしないであろうに、嫌なたとえ話をする。自宅付近まで来た時には駆け足になっていたため、すっかり上がっていた息を整えようと深く息を吸い込み、吐き出した。どうせこちらの出方を見たかっただけのただのたとえ話だと、再三言い聞かせ、その後、妙は普段通りに過ごす。だが、その晩、意地の悪いたとえ話が妙の夢見を悪くした。
大好きな父の背中の隣に大好きな兄の背中。その隣にかわいい弟の背中。父と兄の背中がいつしか消え失せ、かわいい弟の背中は徐々に大きくなる。気まぐれ侍の背中と、かわいらしい少女の背中が成長した弟の背中の隣に現れた。三人の背中は自分から離れてそれぞれの道へ行き、自分のすぐ傍には刀傷が残る大きな背中が、いつの間にか現れていた。触れたくなって手を当てた。もっと触れたくなって頬擦りすると、とても温かかった。心が安らいだのも束の間、その背中は数歩先を行ってしまう。そして、何の前触れもなく、その頭部が消え失せた。
「いやあぁぁぁ……!!」
とめどなく涙があふれる。嫌な汗が全身から湧き出る。闇が広がる自室に敷いた布団で上半身を起こした妙は、夢の光景を脳裏に甦らせて頭を振った。昼間のたとえ話の時のように、ただの夢だと言い聞かせる。だが、動悸は激しくなり、額に汗が滲む。しばらく肩で息をしていたが、少し落ち着くと台所へ向かった。渇いた喉に冷水を流し込み、腹の底から湧き出でる不快感まで流したい。妙が冷えた水を口に含むと、目を覚ましたらしい弟がやって来た。
「姉上、どうしました?嫌な夢でも見ました?」
「え、ええ……ちょっとね……」
と、再び水を飲む。妙が水を飲み終えるまで待って新八は訊ねた。
「大丈夫ですか?……まだ二時だ。この後、眠れますか?」
心配され、妙は笑顔を見せる。
「お水飲んで落ち着いたから大丈夫よ。あ、新ちゃんもお水飲む?」
「いえ、いいです。じゃあ、僕は厠行ってから寝ますね」
新八は行こうとしたが、足を止めた。
「姉上、眠れないようなら遠慮なく起こしてください。朝までつき合いますよ」
「ありがとう。おやすみなさい、新ちゃん」
こう出る姉は、実際しんどくても平気な振りをしているだけだ。だが、とりあえずの笑顔になれるだけの余裕はあるらしい。新八は頷き、にこりと口角を上げた。
「おやすみなさい」
新八が行くのを見送ると、妙は空になっていたガラスコップに冷水を半分ほど注いだ。
『いやァ、お妙さんが作ってくれる水割りはやっぱ美味いなァ。身に沁みますね』
数週間前、仕事場での光景と重ね、耳に残っていた音声を脳内で再生する。記憶をなぞるようにガラスコップに口をつける。少量を口に含み、あの男がしたように息をつく。
「……」
妙は、口から出そうになった言葉を冷水と一緒に飲み込んだ。
翌日、妙は牛乳を買いに出かけた。昨日、出かけた時に買い忘れてしまったものだ。昨日と同じ時間帯に同じ店へと向かう。今日こそは、あの男と鉢合わせするかもしれない。そう思って半月。何かと理由をつけては出かけた。実のところ、追われているのではなく、こちらが追っているのだとわかっている。出かける用事は、それを誤魔化すための言い訳でしかないこともわかっている。しかし、あの顔と向き合えば、あふれんばかりの好意を無下にしてしまうことも、また、わかっている。
昨日、真選組副長と十番隊隊長とすれ違ったところまで来て妙は気を落とした。真選組の人影がない。街を行き交うは市民ばかりだ。市民たちの他愛のない会話も耳に入ってくる。今日もこの街は平和だ。市民と街を護る彼らによって平和がもたらされている。あの男がいなくても世間は平和である。なのに、自分の心は平穏ではいられない。昨日の土方の言葉を思い出す。
『今回の出張、短期のはずだったんだが予定より長引いてる。アンタ、あの人に万が一のことがあったらどうする?』
どうもしないのは変わらない。自分にはどうすることもできないことくらいわかっている。置いて行かれることには、残されることには、慣れてしまっている。記憶の中で生かす背中が増えるだけだ。
不意に妙が人混みに視線をやると、会いたかった人の背中を見つけた。真選組隊士たちと談笑するその人は黒い制服を纏い、こちらに気づきもしない。
「……よかった……」
絞り出すようにこぼすと、堰を切ったように涙が流れ落ちる。低く野太いのに温かさのある笑い声が胸に響く。安らぐはずなのに切なさが込みあがり、苦しくなる。胸に両手を当てるが、尚も苦しい。泣きじゃくる妙は、その場にへたり込んだ。街を行き交う人々は妙の様子を気にし出し、やがて市民が手助けしようと妙に近寄る。が、それより先に黒い隊服が近づいてきた。土方だ。
「悪かったな。だが、正直、こんなになるほどダメージ受けるとは思わなかったんだ」
と、妙の正面で中腰になり、街頭配布のポケットティッシュを差し出した。妙は、それを無言で受け取り、涙を拭って鼻水をかむ。遠慮のない鼻のかみ具合に目を丸くした土方は、妙の鋭い視線にやれやれと溜息をついた。
「近藤さんじゃなくて悪かったな」
「ずび、いいえ。あの人じゃなくてよかったです。あの人が来たところで、とっても面倒くさいだけですから」
身も蓋もない物言いに土方は小首を傾げる。
「アンタ、仮にもあの人に惚れてるんだろう?面倒くさいっていうのはあんまりじゃないか」
「あら、土方さんだってあの人のこと面倒くさいって思ったこと何度もあるんじゃないですか?」
「う……、そ、それはまァ、無きにしも非ずだが、それにしてもなァ……」
図星を指されて歯切れが悪くなる。ポケットティッシュを二個、消費して涙を収めた妙の目は腫れている。
「そんな目ェ腫らすくらいに惚れてるのに、なんで応えてやらないんだ?」
妙は、遠くの近藤を見やった。
「侍だからです」
きっぱりと言った妙は、真っ直ぐに近藤の背中を見つめている。
「あの人は優しい人だから、別れる時、きっと私の分まで傷ついてくれる。真っ直ぐなあの人の心を少しでも軽くしてあげたいんです」
ただの言い訳だ。と、心の中でもうひとりの自分が言った。本当は、どう応えればいいかわからずに戸惑っているだけだ。今までずっと己の身を削るような生き方をしてきた。頼れる大人を子供時代に亡くし、幼い弟とふたりで生きて行かなければならなかった。甘えはとうに捨てたのだ。つまり、甘え方を知らない。
「おまえさんがそう言っても、近藤さんはアンタの膝元で死ぬんだって言ってたぞ」
と、土方は鼻で笑う。
「もう、嘘ばっかり。本当は警察じゃなくて泥棒なんじゃないですか?」
遠くない推理に土方は、くすりと笑ってしゃがんだままの妙に手を差し伸べた。が、妙は、にこりと微笑んで自力で立ち上がる。
「局長の女に手を出そうとするなんて、副長の風上にも置けませんね」
「別に手ェ出してねーよッ!つーか、そういう手じゃねーだろッ!紳士的なやつだろッ!」
全力でツッコミを入れる土方に妙はくすくすと笑った。
「ありがとうございます、土方さん。でも、このこと、あの人には言わないでくださいね」
「心配しなくても惚れた腫れたに、んな無粋な真似しねーよ。あ、けど、ひとつ聞かせてくれ。あの人の子供を残してやりてェとか思ったことねーのか?」
「えっ」
と、言ったきり体の動きを止めて顔を真っ赤にする妙に、土方は悟る。
「悪い。生娘には気の早ェ話だったな。すまねェ、忘れてくれ」
「そ、そうですよ。いやだわ、土方さん。まだ手も握ったことないのに、こッ……子供だなんてッ……!」
熱くなった頬を押さえる妙は、年相応の反応だ。普段は大人びているが、ふとした時に垣間見える妙の年相応の反応はとてもかわいらしいのだと近藤が熱弁していた。土方は、わからなくもないと、心内で頷く。
「あーッ!トシッ!お妙さんと親しげに何話してんだッ!」
妙と土方に気づいた近藤がやってくる。が、妙は間髪入れずに右の拳を近藤の鼻に決めた。その勢いは凄まじく、近藤はそのまま地に伏した。つい先ほどの妙の反応から、泣き腫らしてしまった目を見られたくないための右ストレートなのだと推測できるとは言え、本当に近藤のことが好きなのだろうかと、土方は疑いたくなった。
「ゴリラさん、今日は同伴してくださいます?」
と、笑顔で近藤に馬乗りになる。土方は更に眉を顰めた。意中の男との子供をつくるのかと訊かれてしどろもどろした赤面はどこへやら。鋭い眼光を放ちながら大男の顔面を仕留め、気を失ったところで着物の裾が乱れるのも構わず、大男に跨る。激しい痴話喧嘩だ。土方は一息つき、巻き添えを食らう前にと隊士たちの元へ去った。
「いや、ぶッ、ちょっと、ぐふッ、仕事立て込んでて、いでッ、行けるかどうか、あだッ、怪しいです」
連発されていた拳が止むと、近藤は俯いている妙に謝った。
「……すみません……」
「いえ、いいの。また別の日にお願いしますから……」
込みあがる涙をこぼすまいと、瞳を閉じる。息をついてゆっくりと瞼を上げた。自分に大人しく跨られている近藤の太い首を見る。こちらの様子を窺って緊張しているのか、喉仏が上下した。その首は確かに繋がっている。
よかった―。妙は心の中で呟き、右の手を近藤の左頬へ伸ばした。指先で浅黒い肌を撫でてから手の平を当てる。血の通った温かさに安堵し、口の端を上げた。微笑む妙に近藤は見とれる。消えていってしまいそうな儚さだ。
「お妙さん……」
名を呼ばれて我に返った妙は、触れていた頬の肉を摘まんで横へと引っ張る。
「……痛いです」
「あら、痛いんならよかったじゃないですか」
と、にこりと笑った。
痛みを感じるのは生きている証だ。妙の言うことを理解できない近藤は不思議そうにしている。近藤から退いた妙は立ち上がり、隊士たちに呼ばれた近藤も立ち上がって行こうとする。
「じゃ、仕事あるんで、これで!」
制服に付着した砂埃を払って、にっと笑う。妙が笑顔で小首を傾げると、近藤は背を向けた。不意に、行こうとする大きい背中が夢の中の背中と重なる。首を奪われる前に引き止めたかった思いが、その背中へ伸びる。駆け出そうとする近藤に声をかけた。
「待って、近藤さん」
「ん?」
呼ばれて振り返ろうとした近藤に歩み寄り、伸ばした右手で背中に残っていた砂埃を払う。近藤は、背中に触れる女性の小さな手の感触を噛みしめながら自分を待つ隊士たちに向かって言う。
「あー、ちょっと待ってて!すぐに行くからッ!」
声を発したために妙の手に近藤の声が微かに響く。素肌に触れれば、その声をもっと確かに感じることができるだろうに。
砂埃がなくなった背中に手の平を当てる。夢の時のように温かい背中に頬擦りしたくなったが、思いとどまる。まだ未熟なこの恋は、人知れず楽しむだけでいい。
「あの……」
と、背後で妙の小さな声がして近藤は聞き返した。
「はい?」
「……お気をつけて……」
ぼそりと言った気遣いの言葉に近藤は嬉しくなり、心を弾ませた。
「はい!行ってきますッ!」
近藤は妙に振り返り、満面の笑みで片手を上げる。こちらが言うのを待っている様子の近藤に、妙は不本意ながらも口を開いた。
「……行ってらっしゃいませ……」
とてもかわいらしいとはいえない言い方だった。はっきり発音しないようにと、ぼそぼそと言ったのだ。それでも近藤は嬉しそうに体を弾ませて隊士たちの元へと戻っていった。
「……バカな背中……」
吐き捨てるように呟いたが、妙の口元は緩んだ。
「……ご苦労様です」
微妙な間に土方の片眉が上がった。土方は、すれ違おうとした妙に声をかける。
「近藤さんなら出張中だ」
わざわざあの男の事情を聞かされ、妙の片眉が引き攣る。
「ゴリラのことなんて聞いてませんけど?」
瞬く間に張り詰めてしまった空気に原田の顔色が悪くなる。隊服の内ポケットから煙草とライターを取り出した土方は、咥えた煙草に火をつけた。煙を吐き出すと涼しい顔で言う。
「そうか?売上成績が下がったってツラしてるぞ」
言われて妙は利き手を片頬に当てた。募っていた苛立ちが無意識に表情に出てしまっていたのだろうか。
「あら、そう見えます?」
「ああ。おまえさんの上位キープなんざあの人で持ってるようなモンなんだろう?」
図星を指されたが、微笑んで回答する。
「そんなことありませんけど」
「まァ、そんなこたァどーでもいいが……」
笑顔の仮面を被っていることを見破っているかのような物言いに、妙のこめかみには青筋が立つ。原田は何を発することもなく、青い顔でふたりを見守っている。
「今回の出張、短期のはずだったんだが予定より長引いてる。アンタ、あの人に万が一のことがあったらどうする?」
土方の真剣な面持ちに妙は肝を冷やした。彼が慕う上司であり友人でもあるだろうに、よく縁起でもないことを言えたものだ。
「どうもしませんよ。あの人よりもいいお客さんを探して親しくなるだけです」
にこりと微笑んで続ける。
「あなた方こそ、あの人に万が一のことがあったらどうするんです?」
「俺たちは……」
と、妙の様子を窺った。笑みを浮かべる肌の血色が先ほどよりくすんで見える。土方は、吸っていた煙草を携帯灰皿に片付けた。
「一介の町娘より腹決まってるさ。生半可な気持ちで真剣を握っちゃいねェ。……悪かったな、変なこと訊いちまって。忘れてくれ」
土方は先を行き、原田は妙に会釈して先に行った上司の後を追った。残された妙は、買い込んだ食材が詰まったビニール袋を提げたまま佇んでいた。行ってしまう土方と原田の後ろ姿が見えなくなると、我に返って帰路に就く。
あの男がいなくなる。ある日突然いなくなる。父や兄のようにいなくなる。記憶の中でのみ生き続け、忘れることもできず、再会することもできず、自分が生きている限り、彼らはずっと自分の心の中でのみ生き続ける。
妙は逃げ帰るように自宅へ入った。通ってきた道に散らしてきた不安に追いつかれないよう、それを断ち切るように玄関戸を閉める。
土方も人が悪い。あの男に万が一のことがあれば一番それを赦しはしないであろうに、嫌なたとえ話をする。自宅付近まで来た時には駆け足になっていたため、すっかり上がっていた息を整えようと深く息を吸い込み、吐き出した。どうせこちらの出方を見たかっただけのただのたとえ話だと、再三言い聞かせ、その後、妙は普段通りに過ごす。だが、その晩、意地の悪いたとえ話が妙の夢見を悪くした。
大好きな父の背中の隣に大好きな兄の背中。その隣にかわいい弟の背中。父と兄の背中がいつしか消え失せ、かわいい弟の背中は徐々に大きくなる。気まぐれ侍の背中と、かわいらしい少女の背中が成長した弟の背中の隣に現れた。三人の背中は自分から離れてそれぞれの道へ行き、自分のすぐ傍には刀傷が残る大きな背中が、いつの間にか現れていた。触れたくなって手を当てた。もっと触れたくなって頬擦りすると、とても温かかった。心が安らいだのも束の間、その背中は数歩先を行ってしまう。そして、何の前触れもなく、その頭部が消え失せた。
「いやあぁぁぁ……!!」
とめどなく涙があふれる。嫌な汗が全身から湧き出る。闇が広がる自室に敷いた布団で上半身を起こした妙は、夢の光景を脳裏に甦らせて頭を振った。昼間のたとえ話の時のように、ただの夢だと言い聞かせる。だが、動悸は激しくなり、額に汗が滲む。しばらく肩で息をしていたが、少し落ち着くと台所へ向かった。渇いた喉に冷水を流し込み、腹の底から湧き出でる不快感まで流したい。妙が冷えた水を口に含むと、目を覚ましたらしい弟がやって来た。
「姉上、どうしました?嫌な夢でも見ました?」
「え、ええ……ちょっとね……」
と、再び水を飲む。妙が水を飲み終えるまで待って新八は訊ねた。
「大丈夫ですか?……まだ二時だ。この後、眠れますか?」
心配され、妙は笑顔を見せる。
「お水飲んで落ち着いたから大丈夫よ。あ、新ちゃんもお水飲む?」
「いえ、いいです。じゃあ、僕は厠行ってから寝ますね」
新八は行こうとしたが、足を止めた。
「姉上、眠れないようなら遠慮なく起こしてください。朝までつき合いますよ」
「ありがとう。おやすみなさい、新ちゃん」
こう出る姉は、実際しんどくても平気な振りをしているだけだ。だが、とりあえずの笑顔になれるだけの余裕はあるらしい。新八は頷き、にこりと口角を上げた。
「おやすみなさい」
新八が行くのを見送ると、妙は空になっていたガラスコップに冷水を半分ほど注いだ。
『いやァ、お妙さんが作ってくれる水割りはやっぱ美味いなァ。身に沁みますね』
数週間前、仕事場での光景と重ね、耳に残っていた音声を脳内で再生する。記憶をなぞるようにガラスコップに口をつける。少量を口に含み、あの男がしたように息をつく。
「……」
妙は、口から出そうになった言葉を冷水と一緒に飲み込んだ。
翌日、妙は牛乳を買いに出かけた。昨日、出かけた時に買い忘れてしまったものだ。昨日と同じ時間帯に同じ店へと向かう。今日こそは、あの男と鉢合わせするかもしれない。そう思って半月。何かと理由をつけては出かけた。実のところ、追われているのではなく、こちらが追っているのだとわかっている。出かける用事は、それを誤魔化すための言い訳でしかないこともわかっている。しかし、あの顔と向き合えば、あふれんばかりの好意を無下にしてしまうことも、また、わかっている。
昨日、真選組副長と十番隊隊長とすれ違ったところまで来て妙は気を落とした。真選組の人影がない。街を行き交うは市民ばかりだ。市民たちの他愛のない会話も耳に入ってくる。今日もこの街は平和だ。市民と街を護る彼らによって平和がもたらされている。あの男がいなくても世間は平和である。なのに、自分の心は平穏ではいられない。昨日の土方の言葉を思い出す。
『今回の出張、短期のはずだったんだが予定より長引いてる。アンタ、あの人に万が一のことがあったらどうする?』
どうもしないのは変わらない。自分にはどうすることもできないことくらいわかっている。置いて行かれることには、残されることには、慣れてしまっている。記憶の中で生かす背中が増えるだけだ。
不意に妙が人混みに視線をやると、会いたかった人の背中を見つけた。真選組隊士たちと談笑するその人は黒い制服を纏い、こちらに気づきもしない。
「……よかった……」
絞り出すようにこぼすと、堰を切ったように涙が流れ落ちる。低く野太いのに温かさのある笑い声が胸に響く。安らぐはずなのに切なさが込みあがり、苦しくなる。胸に両手を当てるが、尚も苦しい。泣きじゃくる妙は、その場にへたり込んだ。街を行き交う人々は妙の様子を気にし出し、やがて市民が手助けしようと妙に近寄る。が、それより先に黒い隊服が近づいてきた。土方だ。
「悪かったな。だが、正直、こんなになるほどダメージ受けるとは思わなかったんだ」
と、妙の正面で中腰になり、街頭配布のポケットティッシュを差し出した。妙は、それを無言で受け取り、涙を拭って鼻水をかむ。遠慮のない鼻のかみ具合に目を丸くした土方は、妙の鋭い視線にやれやれと溜息をついた。
「近藤さんじゃなくて悪かったな」
「ずび、いいえ。あの人じゃなくてよかったです。あの人が来たところで、とっても面倒くさいだけですから」
身も蓋もない物言いに土方は小首を傾げる。
「アンタ、仮にもあの人に惚れてるんだろう?面倒くさいっていうのはあんまりじゃないか」
「あら、土方さんだってあの人のこと面倒くさいって思ったこと何度もあるんじゃないですか?」
「う……、そ、それはまァ、無きにしも非ずだが、それにしてもなァ……」
図星を指されて歯切れが悪くなる。ポケットティッシュを二個、消費して涙を収めた妙の目は腫れている。
「そんな目ェ腫らすくらいに惚れてるのに、なんで応えてやらないんだ?」
妙は、遠くの近藤を見やった。
「侍だからです」
きっぱりと言った妙は、真っ直ぐに近藤の背中を見つめている。
「あの人は優しい人だから、別れる時、きっと私の分まで傷ついてくれる。真っ直ぐなあの人の心を少しでも軽くしてあげたいんです」
ただの言い訳だ。と、心の中でもうひとりの自分が言った。本当は、どう応えればいいかわからずに戸惑っているだけだ。今までずっと己の身を削るような生き方をしてきた。頼れる大人を子供時代に亡くし、幼い弟とふたりで生きて行かなければならなかった。甘えはとうに捨てたのだ。つまり、甘え方を知らない。
「おまえさんがそう言っても、近藤さんはアンタの膝元で死ぬんだって言ってたぞ」
と、土方は鼻で笑う。
「もう、嘘ばっかり。本当は警察じゃなくて泥棒なんじゃないですか?」
遠くない推理に土方は、くすりと笑ってしゃがんだままの妙に手を差し伸べた。が、妙は、にこりと微笑んで自力で立ち上がる。
「局長の女に手を出そうとするなんて、副長の風上にも置けませんね」
「別に手ェ出してねーよッ!つーか、そういう手じゃねーだろッ!紳士的なやつだろッ!」
全力でツッコミを入れる土方に妙はくすくすと笑った。
「ありがとうございます、土方さん。でも、このこと、あの人には言わないでくださいね」
「心配しなくても惚れた腫れたに、んな無粋な真似しねーよ。あ、けど、ひとつ聞かせてくれ。あの人の子供を残してやりてェとか思ったことねーのか?」
「えっ」
と、言ったきり体の動きを止めて顔を真っ赤にする妙に、土方は悟る。
「悪い。生娘には気の早ェ話だったな。すまねェ、忘れてくれ」
「そ、そうですよ。いやだわ、土方さん。まだ手も握ったことないのに、こッ……子供だなんてッ……!」
熱くなった頬を押さえる妙は、年相応の反応だ。普段は大人びているが、ふとした時に垣間見える妙の年相応の反応はとてもかわいらしいのだと近藤が熱弁していた。土方は、わからなくもないと、心内で頷く。
「あーッ!トシッ!お妙さんと親しげに何話してんだッ!」
妙と土方に気づいた近藤がやってくる。が、妙は間髪入れずに右の拳を近藤の鼻に決めた。その勢いは凄まじく、近藤はそのまま地に伏した。つい先ほどの妙の反応から、泣き腫らしてしまった目を見られたくないための右ストレートなのだと推測できるとは言え、本当に近藤のことが好きなのだろうかと、土方は疑いたくなった。
「ゴリラさん、今日は同伴してくださいます?」
と、笑顔で近藤に馬乗りになる。土方は更に眉を顰めた。意中の男との子供をつくるのかと訊かれてしどろもどろした赤面はどこへやら。鋭い眼光を放ちながら大男の顔面を仕留め、気を失ったところで着物の裾が乱れるのも構わず、大男に跨る。激しい痴話喧嘩だ。土方は一息つき、巻き添えを食らう前にと隊士たちの元へ去った。
「いや、ぶッ、ちょっと、ぐふッ、仕事立て込んでて、いでッ、行けるかどうか、あだッ、怪しいです」
連発されていた拳が止むと、近藤は俯いている妙に謝った。
「……すみません……」
「いえ、いいの。また別の日にお願いしますから……」
込みあがる涙をこぼすまいと、瞳を閉じる。息をついてゆっくりと瞼を上げた。自分に大人しく跨られている近藤の太い首を見る。こちらの様子を窺って緊張しているのか、喉仏が上下した。その首は確かに繋がっている。
よかった―。妙は心の中で呟き、右の手を近藤の左頬へ伸ばした。指先で浅黒い肌を撫でてから手の平を当てる。血の通った温かさに安堵し、口の端を上げた。微笑む妙に近藤は見とれる。消えていってしまいそうな儚さだ。
「お妙さん……」
名を呼ばれて我に返った妙は、触れていた頬の肉を摘まんで横へと引っ張る。
「……痛いです」
「あら、痛いんならよかったじゃないですか」
と、にこりと笑った。
痛みを感じるのは生きている証だ。妙の言うことを理解できない近藤は不思議そうにしている。近藤から退いた妙は立ち上がり、隊士たちに呼ばれた近藤も立ち上がって行こうとする。
「じゃ、仕事あるんで、これで!」
制服に付着した砂埃を払って、にっと笑う。妙が笑顔で小首を傾げると、近藤は背を向けた。不意に、行こうとする大きい背中が夢の中の背中と重なる。首を奪われる前に引き止めたかった思いが、その背中へ伸びる。駆け出そうとする近藤に声をかけた。
「待って、近藤さん」
「ん?」
呼ばれて振り返ろうとした近藤に歩み寄り、伸ばした右手で背中に残っていた砂埃を払う。近藤は、背中に触れる女性の小さな手の感触を噛みしめながら自分を待つ隊士たちに向かって言う。
「あー、ちょっと待ってて!すぐに行くからッ!」
声を発したために妙の手に近藤の声が微かに響く。素肌に触れれば、その声をもっと確かに感じることができるだろうに。
砂埃がなくなった背中に手の平を当てる。夢の時のように温かい背中に頬擦りしたくなったが、思いとどまる。まだ未熟なこの恋は、人知れず楽しむだけでいい。
「あの……」
と、背後で妙の小さな声がして近藤は聞き返した。
「はい?」
「……お気をつけて……」
ぼそりと言った気遣いの言葉に近藤は嬉しくなり、心を弾ませた。
「はい!行ってきますッ!」
近藤は妙に振り返り、満面の笑みで片手を上げる。こちらが言うのを待っている様子の近藤に、妙は不本意ながらも口を開いた。
「……行ってらっしゃいませ……」
とてもかわいらしいとはいえない言い方だった。はっきり発音しないようにと、ぼそぼそと言ったのだ。それでも近藤は嬉しそうに体を弾ませて隊士たちの元へと戻っていった。
「……バカな背中……」
吐き捨てるように呟いたが、妙の口元は緩んだ。
あたたかい背中
Text by mimiko.
2015/05/20