元気な人
朝のテレビも情報番組は終了間近で人気天気予報士によるお天気コーナーを映し出していた。今日はよい晴れの日となるらしい。布団を干そうと座卓前から立ち上がった妙は、いつものあの声を耳にして眉をひきつらせた。
「おったっえさァァァん!」
障子戸が開かれた庭先に真選組隊服姿の近藤が楽しそうな笑みを浮かべてこちらに駆けてきていた。妙は縁側まで行くとすぐ傍まで来ていた近藤の間の抜けた顔面へめがけて右拳を放った。両手を大きく広げ、さも自分を抱き締めようするとはなんとも許し難い。苛立ちを腹に抱えて妙はいつものようににこりと微笑む。
「おはようございます、近藤さん。真選組ってこんな朝っぱらからやることないんですか?普通のサラリーマンならすでに忙しなく働いている時間帯でしょうに」
「その、昼から忙しくなる予定なんで、今来ました!」
と、妙に打たれた鼻をさすって笑顔を見せる。朝から元気な人だなと、妙は溜息をついた。
「昨夜もお忙しかったのね。せっかくのチャイナデーでしたのに……」
「えッ!!チャイナデー?!ホントに!?」
勢い余る近藤に両肩を掴まれそうになった妙は、隊服の胸倉を力強く掴んで縁側に寝転がった。体勢を崩して踏ん張ろうとするが下へ引っ張られる力に抗えず、体が宙に浮く感覚に目を見開く。妙の片足裏を腿のつけ根に当てられ、思いきり押し上げられた。投げられた近藤は見事な巴投げの受け身をとった。つもりがそこには座卓があった。背中を座卓に打ちつけた近藤は悲鳴を上げる。
「何をなさるおつもりですか」
と、妙は胸倉を掴んだ時に引っ張って外れてしまった近藤のスカーフを握り直して体を起こした。
「誤解です、お妙さん。ちょっと勢い余っただけで決してナニかしようとかしてたわけじゃな……」
背中をさすりながら言い訳をする近藤の隊服から携帯電話の着信音が鳴り、妙は座ったまま振り返った。近藤は携帯電話を取り出し、ディスプレイを確認する。
「……すみません、ちょっと出ます」
立とうとしたが背中の痛みを感じ、座ったまま通話ボタンを押した。
「はい、もしもし、近藤ですッ?!」
なんと妙が自分の膝の上に乗ってきたのだ。
『あぁ~ん?おまえが近藤だろィ。えぇ~ん?なんで俺に聞いてくる~んだァ?』
電話口の松平はいぶかしげな声である。
「あ、いや、なんでもないよ、とっつぁん」
とっつぁん――電話の相手は上司らしい。自分に構うことなく電話に出たことが気に入らなかったが、近藤が出なくてはならなかったのを理解する。真剣な表情で受け答えする近藤は真選組局長の顔をしている。自分と対面する時には滅多に見せないそれだ。妙は小さく溜息をつくと握ったままだった近藤のスカーフを彼の首にかけた。
昼から忙しくなると言っていたから、きっと今日は遅めの勤務なのだろう。妙は、再び首にかけたままのスカーフに触れた。
しかし、この電話を切れば近藤はすぐに行ってしまう。妙はスカーフが外れたままで普段は見えない立ち襟のシャツのボタンを外そうとした。が、近藤の大きな手に両手を掴まれてボタンを外すことはできなかった。通話を終え、携帯電話を隊服の内ポケットへ戻そうとしなければ、自分の両手は自由にならなかった。先ほどはその大きな体を宙へ投げ飛ばせるほど自分にすべてを委ねていたくせに、いざとなったら手一本でこちらを捻じ伏せる。
「もォ、お妙さんは意地悪だなァ」
と、笑う近藤が憎たらしい。妙は視線を落とした。意地悪なのはそちらのほうだろうに。一層のことその減らず口を叩く唇を塞いでやりたい。普段は見えないそのシャツの下に、この男は自分のペットなのだという印を刻んでやりたい。下唇を噛んだ妙は目を閉じて自分の中の感情を落ち着ける。高揚したままこの男にぶつけても、受け止めてもらえるかはわからない。受け止めてもらえず、逃げられてしまうのが怖い。
「あなたのほうが意地悪なんですけど」
顔を上げた妙は冷めた目で近藤を見下ろした。
「えッ!なんで!俺のハートはこんなにも熱いのに!お妙さん、意地悪とか言うの、イ・ジ・ワ・ル☆」
少女がかわいこぶるような言い回しと茶目っ気たっぷりの表情に妙の苛立ちは募る。そうやって自分を苛立たせて殴られ蹴られ、踏まれるのを待っている近藤が憎い。どうして甘い雰囲気にしてくれない。どうせ自分の気持ちなど疾うにわかっているだろうに。やはり意地悪なのは近藤のほうだ。
「歯ァ食いしばれやゴリラ♡」
青筋を立てつつもかわいらしい声で言ってみる。素直に歯を食いしばった近藤の額には汗が浮かんでいた。本当に殴られるのを待っていたのだなと短く溜息をつく。妙は近藤の首にかけたままのスカーフを巻いてやり、汗を浮かせている額にデコピンをお見舞いしてやった。
「あイテ!」
目を開くと妙がころころと笑っていた。
「近藤さん、もう行くんでしょう?」
「えッ!もうイクって!いやまァ、俺は怒ってるお妙さんも、イライラしてるお妙さんも、笑ってるお妙さんも、どのお妙さんでもイけますけど!」
と、近藤は妙の太腿に何かを当てた。
「あの、何かが太腿に当たってるんですけど……?携帯電話……?」
その何かが何であるか気づいたのは近藤が先だった。青ざめて先ほどより汗を掻く。
「あ、うん。そうです、携帯電話。さっき電話切った後、ズボンのポケットに入れ……!」
「携帯電話なら、さっき上着の内ポケットに入れてましたッ!」
顔を真っ赤にした妙は目をぎゅっと瞑って腹から息を吸い込む。
「この、変態ゴリラ!!」
どんな制裁を受けるのだろうと身構えたが、背中が座卓角に軽く当たっただけだった。拍子抜けた近藤は妙の赤面をまじまじと見る。ぽかすかと胸を叩かれるがその衝撃など撫でられているようなものだ。ほぼない。本能に眠る男は結構な間、妙に乗っかられたことによってすでに目覚めているが、理性に眠る男も目覚めてしまいそうだ。非常にまずい。
「お妙さん、もう行くんで、一旦降りてくれませんか」
「へッ?!もうイっちゃうんですか!!私まだ何もしてな……」
と、まで言って妙は我に返った。
「いや、あの、そっちじゃなくて、とっつぁんに呼ばれて、仕事……」
妙は無言で近藤の膝から退いた。着物の裾が必要以上に捲れないよう気をつける妙がとてもかわいらしく、後ろ髪を引かれる思いで近藤はなんとか立ち上がる。
「スカーフ、ありがとうございます。お妙さんにしてもらったら身が引き締まります。毎日してもらいに来ちゃおっかなァ」
「いえ、もう来ないでください」
にこりと微笑まれ、近藤は肩をがっくりと落とした。やはり先ほどの少し甘い雰囲気は夢だったのか。一息ついて近藤は縁側から出て行った。
折角、家の中へ入れてやったのに、何故敢えて縁側から帰っていくのか。玄関から出ていけばいいものを。
身軽に庭から塀へと飛び乗る近藤を見送った妙は呟いた。
「バカ……」
一度でも振り返ればガラス製灰皿を顔面にお見舞いしてやったものを。
「変態……」
今度、携帯電話と称して猥褻なものをこすりつけてきたら即、警察へ通報してやる。
「……」
近藤の膝の上に乗った時には何ともなかったのに、自分が乗り続けるとあんな、とまで考えて妙は頭を左右に振った。