WJ2015年32号第五百五十訓「さらば真選組」、33号第五百五十一訓「さらば真選組 後篇」前提の近妙+新です。

行ってきます

 かつて、自分を置いていくのだから浮気などせずに自分の道を貫いてくれと祈るように乞われたことがあった。惚れられた女を置き去りにする覚悟を決めた友の意思を尊重するために、俺は何も言わなかった。いや、正しくは言えなかった。双方を適当に取り繕って友の女を従えたところで、女の人生に責任を持てないと思ったからだ。己の明日の行く先も見通せないのに、軽口なぞ叩くものではない。何より、惚れた腫れたに第三者が口を挟むものではない。だが、俺はその友に助言を乞う。
「お妙さん、俺の後を追うほど俺に惚れていたのか?」
「何寝ぼけたこと言ってんだ」
 呆れ顔で煙草の煙を吐かれ、その反応はもっともだと頷いたのだが、俺は瞬きを繰り返すこととなる。
「知らねェふりも大概にしろよ。俺が女でもアンタみてーな男に惚れたら、顔を見る度に毎回殴るだろーよ」
「え、なんで。お妙さんのところに直談判しに行ってくれた時、トシ言ったじゃん。嫌なもんは嫌なんだろって、言ったじゃん」
 女に人気があり、それなりに女を知っている友の言うことなのだからと信じて疑わなかった。それが偽りであったとでも言うのか。
「そんなもん本人に聞けよ。俺はアンタのおつかいに行っただけだ。女の気持ちにまで責任とれるか。てめーでなんとかしろ」
 とかなんとか言われて尻を蹴られた。今生で会うことはもうないだろう。だから、別れを告げようと彼女のよく通る道で身を潜めた。このまま会えなくとも構わない。そう思っていたが、傘を差した彼女が通りに差し掛かった時、平穏だった鼓動が大きく打った。本当に会わなくてもいいのか。会わずに刑執行を受け入れたら、彼女は御上に盾突いたのだ。殉職した長官の情けがあったからこそ最悪を免れただけだ。身の丈を顧みず、自分の道を貫こうとする美しきか弱い侍。だからこそ、惚れた。不浄を包み込む心に癒されたくて彼女の元へ通い詰めた。しかし、それは十も離れた娘にただ単に甘えていたことになる。確かにそれは顔を見る度、殴りたくなるだろうな。解放してやるべきだ。そして、愛した女の笑顔をこの目に焼きつけて行くべきだ。過去を振り返った時、遠巻きにこちらを窺っている浮かない顔の彼女ではあんまりだ。記憶の中の彼女の顔を思い浮かべてから目を開くと、彼女はすでに先を歩いていた。身を潜めていたごみ箱の中でもがく。思っていた以上にごみと一体化していたらしい。ごみの隙間から外の様子を窺うが、雨降りの通りには人の姿はもちろん、彼女の姿もなかった。しかし、不意に頭上が軽くなる。紛れ込むために載せていたごみ袋が取り除かれたのだ。ぎくりとした。俺の姿を発見した時の彼女の気配は一言では言い表せないものが渦巻いている。いつも通りのはずだった。だが、いつもとは違った。
「やめてもらえます。もう……こういうの。風邪、ひくから」
と、頭上のみ雨が止んだ。彼女が差していた傘がこちらに傾いているのだろう。
「……なんで……」
 わかっているのだろう。
「今日に限って……」
 不自然だっただろうか。
「そんな事……」
 こちらはいつも通りなんだがな。
「言うんですか。いつもみたいに、この変態ストーカーって……」
 相変わらず、女にはモテねェはずなんだがな。
「一発かましてくれればよかったのに」
 いつから、そんなふうに思っていたのかな。本当に、なんで今日に限ってそんな事言うんだろうか。俺は、もう決めてる。君も、わかってるはずだ。振り返って告げると、彼女は悲しげに眉を顰めた。
「お別れ、しづらくなっちゃうじゃないですか」
 彼女は、顔面の傷を見つめている。
「そんな顔、せんでください」
 ごみ箱から這い出ると、彼女は俺の顔から視線を落とした。初恋の男のことでも思い出したのだろうか。あの死地から這い戻るには必要だった傷を両手で掬った水面越しに毎朝、見る度、どこかで見た顔だと思っていた。今朝は、それをどこで見たのか思い出した。半分ロボっ子なぞにはならなかったが、俺は一度死んだ。そして、のこのこと彼女の前に姿を現した。皮肉なものだ。どこまでも彼女の初恋の男の二の舞で、たった今、俺は彼女にこんな顔をさせている。なのに、よくもそんな顔をするなと言えたものだな。己を嫌悪するしかない。俺には彼女を悲しませることしかできないのだ。もう、楽しそうに俺を殴る彼女を見ることは叶わない。そう、もう戻れないのだ。
「お話なら、うちで伺います。いらしてください」
と、彼女は俺に傘をさしかけたまま、体の向きを変えた。頭の位置が高い俺を傘に入れているために細い腕が伸ばされている。もう一方の手には風呂敷包みの荷物を掴んでいるために白い肌が袖から覗いていた。俺の遊びにつき合って出せる力の限りで応えてくれる時ならいざ知らず、普段の彼女は易々と肌を露出しない。その彼女がそれを許している。俺だけではない。彼女のほうも、もう戻れないのだと悟った。彼女が握る傘の柄の上部を握った。想定していなかったらしい彼女の手が傘の柄から離れると、俺は細い肩を濡らす雨をそれで遮った。恒道館道場の門が目視できる所まで行くと人が傘を差しているのが確認できた。彼女の弟だ。ひとつの傘を共用していることについて指摘されるかと瞬間、身構えた。が、彼は目の色を変えることなく姉に帰宅を迎える挨拶をし、俺に会釈した。
「お久しぶりです、近藤さん。お元気そうで何よりです」
 姉と同じように寂しげに微笑み、彼女と俺に背を向けた彼を見て悟った。彼もまた、戻れないのだと。
 客間に通され、お掛けくださいと畳を差した彼女だったが、俺は縁側に腰掛けた。彼女も俺に倣って縁側に腰掛ける。招かれるほど親しいわけではない。ただ、しぶといゴキブリのように彼女の周囲を徘徊していただけだ。家を捨てた血生臭い己が大事にされている家の敷居を跨ぐなどとんでもないことだ。しかし、振り返らされた。夢を掴むまで振り返らないと決めていたのに、夢を掴んだ途端、出会ってしまった。振り返ってしまった。焦がれてガキのようにはしゃいで、愛してしまった。だが、もう決めてしまっている俺に何が言える。別れを宣言する以外に何もない。話すことなど何もない。
「お別れの言葉なんて、必要ありませんよ」
 何も言えないでいると彼女が言った。降りしきる雨粒の行方を大きな瞳が捉えている。顔を庭に向けたまま視線だけを彼女に向けた。
「あなたがいるなら、どこにいったって真選組はなくならないもの。そこがどこだってあなた達は、江戸を、みんなを、護るために戦っているって……私はしってるもの」
 伝えようとする声は真っ直ぐで、すぐに雨音が耳に届かなくなった。
「だから、そんな顔しないでください。もっと胸を張って笑顔でいってください。じゃないと私……」
 真っ直ぐだった声が震えだすと、彼女は目を細めて微笑んだ。その目尻には涙が浮かんでいた。
「新ちゃんと約束したのに、いってらっしゃいも、お帰りなさいも、言えないじゃないですか」
 儚いのに美しい横顔だった。見惚れていると背後から彼の声がした。
「今度、帰ってきた時は、天井裏でもない、軒下でもない、正門から堂々と来てください」
 彼女と俺の間に茶をふたつ載せた盆を置いた。
「お茶くらい……出しますから」
と、言った瞳は庭にできていた水たまりを見つめたまま、大きく見開かれていた。彼女と同じように堪えているのだろう。いつから、そんなふうに思っていたのかな。本当に、なんで今日に限ってそんな事言うんだろうか。いつもみたいに、この変態ストーカー、なんで姉上と相合傘なんてしてるんだって……一発かましてくれればよかったのに。彼が淹れてくれた茶に手を伸ばすと、彼は何も言わずに去った。彼女も俺に倣って茶に手を伸ばす。雨の音を聞きながら、美味い茶を飲んでいると雨は止んでいた。湯呑を盆に置いて立ち上がると、彼女が後を追ってきた。玄関で草履を履くと彼が出てきた。玄関を出るとふたりの足音が止んだ。まるで出かける家族を見送っているようじゃないか。ああ、そうだったな。俺は、いつもこの家に来てもコソ泥のように潜伏していた。そして、コソ泥のように姿を消していた。だが、それも、もう終わりだな。大人しくお縄につくしかあるまい。正義感の強い姉弟に捕らえられてしまったのだから。
 尾美一塾頭、アンタの弟分達は強いな。やられたよ。見事だ。まんまと一本ずつとられた。こんなに強ェんじゃあ負けを認めねーわけにはいかないよ。俺は敬意を持って振り返った。
「いってきます」
行ってきます
Text by mimiko.
2015/07/29

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