第五十訓「どうでもいいことに限ってなかなか忘れない」(7巻)を近妙的に補完の妙視点。
君は誰、あなたはどこ
原動付バイクで走行中、事故に遭った銀さん。不幸中の幸いとはよくいったもので、怪我は軽傷で済んだ。けれど、厄介なことだと医者は言ったという。記憶喪失。一時的なものなのか、一切の過去を思い出せないままなのかわからない。自分の存在ごと忘れていて、自分が何者なのかもわかっていない。木の枝のように複雑に絡み合っている人間の記憶。その枝の一本でもざわめかせれば、他の枝も徐々に動き始めるという。焦らず気長に経過を見ていきましょうと言われた新ちゃん達だったけれど、気は逸る。自営の万事屋事務所兼自宅、古い友人の桂さん、真選組の土方さんと沖田さん、今まで出会った人達、ゆかりの場所を巡ってこの恒道館へ辿り着いたらしい。銀さんはもちろん私のことも忘れている。他人の弟をたぶらかし、他の星からやって来たいたいけな女の子をたぶらかし、あげく私のことまで忘れているだなんて胸クソが悪いったらありゃしない。私はね、人とは対等でありたいの。誰かを思いやって誰かに思いやられて、助け合って生きていくのが理想。こちらが信じた相手なら、相手もこちらを信じてくれなくちゃいや。信じた相手に裏切られて負けを見るだなんて悔しくて堪らないじゃない。父上はお人好しだった。それは、いいところでもあり悪いところでもあった。私は、つけ入られて負けを見たまま終わりたくない。父上のことは尊敬しているけれど、同じ轍は踏まない。私は勝ちに行く。勝利は、自分で掴みに行く。
記憶をなくした銀さんの着物を掴んで殴りかかろうとすると、その銀さんに腕を掴まれた。
「すみません。今はまだ思い出せませんが、必ずあなたのことも思い出しますので。それまでご辛抱を」
いつもなら死んだ魚の目であるはずなのに、それは生き生きしていた。きらめく瞳に別人のような誠実な言葉。思わずドキドキしちゃった。恥ずかしくなって銀さんに掴まれた手を振りほどいた。
「あんな目と眉が離れた男のどこがいいのよ。あんなチャランポランな銀サンより、今の銀サンの方が真面目そうだし……、す……素敵じゃない」
目を閉じてついさっきの銀サンを反芻する。
「何ほほ染めてんですかァ!!まさかホレたんかァ!?認めん!俺は認めんぞ!!あんな男の義弟になるなんて、俺は絶対イヤです!!」
と、コタツに入ったまま力の限り叫ぶ新ちゃん。確かにね、私もいやだわ。だっていつあのチャランポランに戻るかわからないじゃない。記憶がないうちに万事屋稼業を廃業させて真面目に働かせたとしても、記憶が戻ればこんなことやってられるかって、どうせチャランポランに戻っちゃうのは目に見えてる。
「話を飛躍させるんじゃありません」
ジリ貧金なしでどうやって道場と生活を両立できるってんですか。ある程度の財産がなければ結婚なんて私もいやよ。
「そーですよ!今は目と眉が近づいてますが、記憶が戻ればまた離れますよ!!また締りのない顔に戻りますよ!!」
と、新ちゃんの入るコタツ布団の横からゴリラが顔を出した。
ええ、その通りね、近藤さん。私も今、同じことを考えていたのよ。一見まともに見える3Kの人。女性が結婚条件に挙げる3Kを揃えた人。でも、その実態は、高収入、高身長、ケツ毛の3K。お世辞でも高学歴とはいえない。だって、バカだもの。その上、嫌がらせのように私につきまとう。姿を現せてはいつの間にか逃げ帰っているすばしっこいゴキブリのようだし。私は、3Kで2Gの頬を踏みつけた。
「何をしてんだてめーは……」
にこりと笑って静かに毒づく。
「いや、あったかそうだったんでつい寝ちゃって……」
あったかそうだったんで、じゃねーわよ。公務中にキャバ嬢宅に潜伏してるだなんてやっぱりバカでしかないじゃない。お土産の破亜限堕津(はーげんだっつ)が溶けてドロドロって、ほんと何時間コタツの中にいたっていうの。みんながうちに来る前からいたっていうのならなんでもっと早くに破亜限堕津を献上しないのよ、このゴリラ。コタツに入りながら高級アイスを味わうなんて贅沢タイムを逃すなんて悔しいじゃない。ゴキブリ兼ゴリラから降り立ってドロドロに溶けている破亜限堕津のカップを受け取り、コタツの上へと置いた。コレ、何時間か冷凍庫入れておいたらまた元の美味しいアイスにならないかしら。溜息をついて無残な破亜限堕津から3Kな2Gに視線をやった。こちらの出方を待っている様子にイラついて軽く鼻に右ストレートをお見舞いする。発していないゴリラの「よし」という声が聞こえた気がして苛立ちは募った。この人も相当、問題だらけの人よね。銀さんのこと言えたもんじゃないわよ、近藤さん。一体、私に何を期待しているというのよ、まったくもう。
「ストーカーをするような人は、目から毛が生えてても好きになれません」
「わかった。じゃあ、目より下に毛ェ生やすからどーですか!?」
「どーですかって、化け物じゃないですか」
ああ、バカね、正真正銘のバカね。そういうことじゃないわよ、近藤さん。私が求めているのは真の侍なのよ。自分の魂におさめた真っ直ぐな剣を持っている侍なの。だから、真面目で誠実な人がいいの。容姿がどうのっていう話じゃないのよ。わざとなのかしら。わかってるのに、わざとボケていて私のツッコミを待ってるのかしら。だとしたら余計に腹立たしい。再び右に拳を作ると新ちゃんに呼ばれた。
「姉上ェェェ甘い物です。とにかく家中の甘い物をかき集めてきてください!」
「え?何?」
近藤さんへ改めて右ストレートをお見舞いしてやろうとしていた手が止まる。
「いいから甘い物!」
捲し立てられ、とりあえず台所へ向かった。とにかく甘い物って言われても、困ったわね。今すぐに思いつくものなんて、近藤さんがもってきてくれたドロドロの破亜限堕津くらいしかないじゃない。あ、そうだわ、甘い卵焼きなんてどうかしら。思い立って砂糖と卵を溶いて卵焼き器にそれを流し込んだ。どうか、銀さんの記憶が戻りますように。願いを込めて卵を巻いていく。念のためにとしっかりと焼いてそれに砂糖をまぶした。急いで戻ると焼きたての卵焼きをいち早く食べさせてあげようと銀さんの口へと入れ込んだ。逸る気持ちで押し込みすぎちゃったかしら。勢いがすぎたのか、銀さんはそのまま後ろへ倒れ込んでしまった。新ちゃんは妙に落ち着いた声で聞いた。
「……姉上、なんですか?それ」
「卵焼きよ。今日は甘めにつくってみたから」
甘めに甘めにって、思っていた以上の砂糖を入れてしまったけど。砂糖が多すぎたのか卵を巻くのがちょっと難しかったけど。少しいびつになっちゃったからじゃないけど、卵焼きに砂糖をまぶしたし。今、我が家にある一番甘いものといえばこの卵焼きなんだけどどうしたのかしら、新ちゃん。なんだか私を見たまま固まってるわね。神楽ちゃんも新ちゃんと同じような顔してるし、一体どうしたのかしら。
「いや~なかなか個性的な味ですな、この卵焼……ブっ」
銀さんの口に入りきらなかった甘めにつくった卵焼きを頬張っていた近藤さんは、銀さんに寄り添うように畳に俯せになった。束の間の沈黙の後、銀さんと近藤さんは目を覚ました。
「君達は……誰だ?」
目と眉が近づいて黒目が大きくなって無垢な瞳が縋るようにこちらを見上げた。銀さんは、まるで捨てられた子猫のように。近藤さんは、まるで迷子になってしまった子犬のように。ふたりともかわいらしかった。
コタツに入り直してあれやこれやと質問をしてみたけれど、ふたりともやっぱり記憶をなくしていた。振り出しに戻った銀さんは、もう一度かぶき町すごろくへ出かけ、近藤さんも真選組へ帰すことに。屯所へ連絡を入れさえすればすぐに迎えがくるだろうからと、近藤さんを心配する新ちゃんを銀さんに付き添わせた。
「フリダシに戻っちゃいましたね」
と、コタツに入っている近藤さんへとお茶を出す。近藤さんは会釈して湯呑みを手に取った。
……ん?フリダシ?元からふたりでコタツに入っていたことが?あら、どうして近藤さん、記憶を喪失してるのかしら。銀さんのように交通事故に遭ったわけじゃなかったわよね。私の知らぬ間にコタツに入っていてお土産の破亜限堕津をドロドロに溶かしていただけじゃない。私の卵焼きを食べて記憶喪失になったってことなの?そんなバカげたことなんてあるのかしら。あ、わざと?空気読んでボケて私のツッコミを待ってるのかしら。だとしたら、失礼な人。まるで私の卵焼きを劇物扱いじゃない。ここは懲らしめてやらないとこちらの気が治まらないわ。真選組への連絡はそれからでもいいわよね。
「あの、近藤さん?本当に私のことを忘れてしまったのかしら?」
「スミマセン」
と、啜っていた湯呑みを置いて頭を下げる。
「……私のことは覚えてるわよね?」
「スミマセン」
聞き直しても同じだった。すまなさそうに頭を下げるのみ。
「いや、覚えてるわよ。ふざけんじゃないわよ。交通事故に遭いもしてないのにただストーカーしてた人がなんで記憶喪失になってるのよ。私は覚えているのに一方的に忘れられるなんて胸クソ悪いわ」
ゴキブリ兼ゴリラのくせに何様なの?近藤さんは、やっぱりすまなそうにしているだけだった。私は溜息をついて立ち上がる。
「じゃあ、仕方ありませんね」
真選組の制服を掴んで右手の平に親指を入れ込んで拳を握った。
「是が非でも思い出してもらいます」
構えた右手に力を入れると左手が掴まれた。
「すみません。今はまだ思い出せませんが、必ずあなたのことも思い出しますので。それまでご辛抱を」
いつもなら黒目の小さな三白眼のはずなのに、それは少し大きくて凛としていた。きらめく瞳に誠実な言葉。思わずドキドキしちゃった。何よ、さっきの素敵な銀サンと同じこと言っただけじゃない。恥ずかしくなって素敵な近藤サンに掴まれた手を振りほどこうとしたけれど、手首は掴まれたままだった。指で輪を作ってまるで枷のよう。手錠のつもりなの?私の瞳をタイホしてくれるつもりなの?ダメよ、近藤サン如きでドキドキするなんて。こんな誰もいないふたりきりの部屋で、こんなに近いのに見つめ合っちゃったりなんかしたら、何かがはじまっちゃうかもしれないじゃない。そんなの、ダメ……。
「時に、お訊ねしたい。あなたは俺の恋人か、婚約者か、そんな感じの人なんですか?」
え?
「いや、なんか熱っぽい目で見つめられたんでそうなのかなって……」
は?
「そ……そんなわけないじゃない。さっきみんなで話した時にも言ってたけど、あなたは私のストーカーだったのよ。あなたが一方的に私のことを好きになって、私につきまとってたんです!とっても迷惑してたんだから!」
それがどうして、私があなたを熱っぽい目で見つめていただなんて勘違いできるのかしら!?私はいつもと違う近藤さんに少しドキドキしただけで、欲情した覚えなんてないんだから!
「わかりました。すみません……」
と、近藤さんは私の手を離した。あっさりと手錠を解錠してくれたと思いきや、解放したはずの左手を取る。そして薬指に唇を押し付けた。なにしてるの、近藤さん。
「今はこれで許してください。必ずあなたのことを思い出します。そして、真の愛をあなたに誓う」
太い親指が愛おしげに左手の甲を撫でる。優しく往復する指に緊張し、体が強張った。
「あ……」
左手を握られたまま腰を引き寄せられて反射的に近藤さんの顔を見上げた。今までにない近さに目を伏せる。顔がゆっくりと近づいてくる。ダメよ、近藤さん。これ以上は私の心臓が持たないわ。あ、動悸が。あれ?息ってどうしたらできるのかしら。というか、してる最中に鼻で息してもいいものなの?混乱と若干の酸欠は、近藤さんに両肩を掴まれて解除された。予想していなかった近藤さんの動きに目をぱちぱちとさせる。
「すみません、お妙さん。つい魔が差しちまいました」
え?
「いや、ホント、マジで記憶なくしてたんですよ?けどね、お妙さんに改めてストーカーしてたって言われたあたりからその、ぼんやり思い出してきたというか……」
すっかりいつもの調子の近藤さんがそこにいた。
「するってェと何かい?ゴリラの分際で私を謀ろうとしたわけかい?あぁん?」
毒づくと近藤さんは顔を青くして肩を震わせた。
「い、いや、断じてそんなことはありません!俺の愛はいつだって真です!」
「嘘おっしゃい!信じられません!私のこと騙して口説いたあげく……」
キスまでしようとしておきながら……!!
「え!お妙さん、俺に口説かれてたんですか!」
完全に墓穴を掘っていた。もうホントお墓に入りたい気分だわ。なんなの?ほんの少しの間でも私のことあっさり忘れてたくせに。真の愛だなんて言って乙女の純情を手の平で転がしまくるような最低な人なのに。結局、この人をつけ上がらせることしかできないなんて、悔しくて堪らないじゃない。今までに経験のしたことない恥辱に全身を戦慄かせた私は、渾身の右ストレートを近藤さんの脳天にお見舞いした。畳に伏した近藤さんは、私の卵焼きを食べた時のように、束の間の沈黙の後、目を覚ました。
「君は一体誰だい?僕の知り合いなのかい?」
迷子の子犬の無垢な瞳が縋るようにこちらを見つめた。
「……すみません。いろいろ教えてくれたのに、結局僕はなんにも……」
真選組から私たちの出会い、そして今。私が知っていることをニュー近藤サンに話して聞かせた。今度こそ、本当に記憶喪失になってしまったらしい。完全にニュー近藤サンとなってしまった近藤さんにこぼす。
「もうそろそろ到着していてもいいはずなのに……」
「誰か来るんですか?それなら僕はそろそろお暇します」
「ダメよ、近藤さん。あなたのお迎えなんですから、ちゃんと待っててください。あなた、そう見えても警察のお偉いさんなんですからね。それにしてもおかしいわね。連絡してから随分経つのに、誰も来ないなんて……。何か事件でもあったのかしら」
局長が記憶喪失なのも重大な事件だと思うのだけれど。後で聞いたのだけれど、その頃、万事屋事務所に宇宙船が墜落したんだとか。なんでも同じ店のキャバ嬢仲間であるおりょうちゃんの常連のお客さんが飲酒運転しちゃったんだとか。
「……もういいですよ。僕のことは放っておいて。嫁入り前の娘さんがいるお宅にこんなムサイ男をいつまでもあがらせていてはいけません。僕のことは気にせずに、どうぞ、もう自由になってください。聞けば、君は僕に一方的に言い寄られて犯罪まがいのつきまとい行為を受けていたのでしょう。いつまでも、そんな男を留まらせる理由もないでしょうに。記憶を失って、警察という組織から見放され、僕が近藤勲という男であった証はなくなってしまった。でも、これもいい機会かもしれない。みんなの話じゃ僕はゴリラなストーカーでしかなかったようだし、生まれ変わったつもりで生き直してみようかなって」
ニュー近藤サンは一息ついてから言った。
「だから、ここへは二度と来ません」
いやに落ち着いた声だった。わざと突き放すように言っている。あなたを語るにはあなたを知らなさすぎる私にも、それくらいはわかった。そう、わかってる。真の馬鹿でないことくらい、わかってる。バカを演じるバカでしかないことくらい、わかってる。あなたと出会って、真選組の活躍をよく耳にするようになって、なんだか私が誇らしかった。そんな人達と一緒にしたお花見は楽しかった。泣く子も黙る真選組だなんて恐れられているけれど、みんなただのバカだった。バカがバカを演じてバカバカしい事件解決ばかりだけれど、そこには護られた人達の笑顔がいつもある。そんなバカを束ねるバカが真の悪人でないことくらい、簡単にわかるもの。
「そんなこと言わないでください」
コタツから出て立ち上がる近藤さんの腕を両手で引き止める。
「待って、近藤さん。あなたのお迎えが来るまでここで待ってて。何時まででも、夜が明けるまででもいいから。必ずあなたの仲間が来るから、お願い」
「すまない。君の知っているゴリラは、もう僕の中にはいない」
謝られて、そんなことを言われてしまったら何も言えなくなるじゃない。だって、私はあなたを語るほどあなたを知らないもの。私はそれを否定できないもの。引き止めていた腕を放すと、どこかへ行ってしまった。うちに真選組の人が来たのは近藤さんが出て行ってから間もなくのことだった。山崎という人は、副長に怒られるだの殺されるだのなんだのと慌てふためいて飛び出して行った。
どこへ行くの、近藤さん。私の知ってるあなたなんて、あなたを成すほんの一部分でしかないのよ。帰ってきたら、あなたのこと、もっと教えてくださいね。
記憶をなくした銀さんの着物を掴んで殴りかかろうとすると、その銀さんに腕を掴まれた。
「すみません。今はまだ思い出せませんが、必ずあなたのことも思い出しますので。それまでご辛抱を」
いつもなら死んだ魚の目であるはずなのに、それは生き生きしていた。きらめく瞳に別人のような誠実な言葉。思わずドキドキしちゃった。恥ずかしくなって銀さんに掴まれた手を振りほどいた。
「あんな目と眉が離れた男のどこがいいのよ。あんなチャランポランな銀サンより、今の銀サンの方が真面目そうだし……、す……素敵じゃない」
目を閉じてついさっきの銀サンを反芻する。
「何ほほ染めてんですかァ!!まさかホレたんかァ!?認めん!俺は認めんぞ!!あんな男の義弟になるなんて、俺は絶対イヤです!!」
と、コタツに入ったまま力の限り叫ぶ新ちゃん。確かにね、私もいやだわ。だっていつあのチャランポランに戻るかわからないじゃない。記憶がないうちに万事屋稼業を廃業させて真面目に働かせたとしても、記憶が戻ればこんなことやってられるかって、どうせチャランポランに戻っちゃうのは目に見えてる。
「話を飛躍させるんじゃありません」
ジリ貧金なしでどうやって道場と生活を両立できるってんですか。ある程度の財産がなければ結婚なんて私もいやよ。
「そーですよ!今は目と眉が近づいてますが、記憶が戻ればまた離れますよ!!また締りのない顔に戻りますよ!!」
と、新ちゃんの入るコタツ布団の横からゴリラが顔を出した。
ええ、その通りね、近藤さん。私も今、同じことを考えていたのよ。一見まともに見える3Kの人。女性が結婚条件に挙げる3Kを揃えた人。でも、その実態は、高収入、高身長、ケツ毛の3K。お世辞でも高学歴とはいえない。だって、バカだもの。その上、嫌がらせのように私につきまとう。姿を現せてはいつの間にか逃げ帰っているすばしっこいゴキブリのようだし。私は、3Kで2Gの頬を踏みつけた。
「何をしてんだてめーは……」
にこりと笑って静かに毒づく。
「いや、あったかそうだったんでつい寝ちゃって……」
あったかそうだったんで、じゃねーわよ。公務中にキャバ嬢宅に潜伏してるだなんてやっぱりバカでしかないじゃない。お土産の破亜限堕津(はーげんだっつ)が溶けてドロドロって、ほんと何時間コタツの中にいたっていうの。みんながうちに来る前からいたっていうのならなんでもっと早くに破亜限堕津を献上しないのよ、このゴリラ。コタツに入りながら高級アイスを味わうなんて贅沢タイムを逃すなんて悔しいじゃない。ゴキブリ兼ゴリラから降り立ってドロドロに溶けている破亜限堕津のカップを受け取り、コタツの上へと置いた。コレ、何時間か冷凍庫入れておいたらまた元の美味しいアイスにならないかしら。溜息をついて無残な破亜限堕津から3Kな2Gに視線をやった。こちらの出方を待っている様子にイラついて軽く鼻に右ストレートをお見舞いする。発していないゴリラの「よし」という声が聞こえた気がして苛立ちは募った。この人も相当、問題だらけの人よね。銀さんのこと言えたもんじゃないわよ、近藤さん。一体、私に何を期待しているというのよ、まったくもう。
「ストーカーをするような人は、目から毛が生えてても好きになれません」
「わかった。じゃあ、目より下に毛ェ生やすからどーですか!?」
「どーですかって、化け物じゃないですか」
ああ、バカね、正真正銘のバカね。そういうことじゃないわよ、近藤さん。私が求めているのは真の侍なのよ。自分の魂におさめた真っ直ぐな剣を持っている侍なの。だから、真面目で誠実な人がいいの。容姿がどうのっていう話じゃないのよ。わざとなのかしら。わかってるのに、わざとボケていて私のツッコミを待ってるのかしら。だとしたら余計に腹立たしい。再び右に拳を作ると新ちゃんに呼ばれた。
「姉上ェェェ甘い物です。とにかく家中の甘い物をかき集めてきてください!」
「え?何?」
近藤さんへ改めて右ストレートをお見舞いしてやろうとしていた手が止まる。
「いいから甘い物!」
捲し立てられ、とりあえず台所へ向かった。とにかく甘い物って言われても、困ったわね。今すぐに思いつくものなんて、近藤さんがもってきてくれたドロドロの破亜限堕津くらいしかないじゃない。あ、そうだわ、甘い卵焼きなんてどうかしら。思い立って砂糖と卵を溶いて卵焼き器にそれを流し込んだ。どうか、銀さんの記憶が戻りますように。願いを込めて卵を巻いていく。念のためにとしっかりと焼いてそれに砂糖をまぶした。急いで戻ると焼きたての卵焼きをいち早く食べさせてあげようと銀さんの口へと入れ込んだ。逸る気持ちで押し込みすぎちゃったかしら。勢いがすぎたのか、銀さんはそのまま後ろへ倒れ込んでしまった。新ちゃんは妙に落ち着いた声で聞いた。
「……姉上、なんですか?それ」
「卵焼きよ。今日は甘めにつくってみたから」
甘めに甘めにって、思っていた以上の砂糖を入れてしまったけど。砂糖が多すぎたのか卵を巻くのがちょっと難しかったけど。少しいびつになっちゃったからじゃないけど、卵焼きに砂糖をまぶしたし。今、我が家にある一番甘いものといえばこの卵焼きなんだけどどうしたのかしら、新ちゃん。なんだか私を見たまま固まってるわね。神楽ちゃんも新ちゃんと同じような顔してるし、一体どうしたのかしら。
「いや~なかなか個性的な味ですな、この卵焼……ブっ」
銀さんの口に入りきらなかった甘めにつくった卵焼きを頬張っていた近藤さんは、銀さんに寄り添うように畳に俯せになった。束の間の沈黙の後、銀さんと近藤さんは目を覚ました。
「君達は……誰だ?」
目と眉が近づいて黒目が大きくなって無垢な瞳が縋るようにこちらを見上げた。銀さんは、まるで捨てられた子猫のように。近藤さんは、まるで迷子になってしまった子犬のように。ふたりともかわいらしかった。
コタツに入り直してあれやこれやと質問をしてみたけれど、ふたりともやっぱり記憶をなくしていた。振り出しに戻った銀さんは、もう一度かぶき町すごろくへ出かけ、近藤さんも真選組へ帰すことに。屯所へ連絡を入れさえすればすぐに迎えがくるだろうからと、近藤さんを心配する新ちゃんを銀さんに付き添わせた。
「フリダシに戻っちゃいましたね」
と、コタツに入っている近藤さんへとお茶を出す。近藤さんは会釈して湯呑みを手に取った。
……ん?フリダシ?元からふたりでコタツに入っていたことが?あら、どうして近藤さん、記憶を喪失してるのかしら。銀さんのように交通事故に遭ったわけじゃなかったわよね。私の知らぬ間にコタツに入っていてお土産の破亜限堕津をドロドロに溶かしていただけじゃない。私の卵焼きを食べて記憶喪失になったってことなの?そんなバカげたことなんてあるのかしら。あ、わざと?空気読んでボケて私のツッコミを待ってるのかしら。だとしたら、失礼な人。まるで私の卵焼きを劇物扱いじゃない。ここは懲らしめてやらないとこちらの気が治まらないわ。真選組への連絡はそれからでもいいわよね。
「あの、近藤さん?本当に私のことを忘れてしまったのかしら?」
「スミマセン」
と、啜っていた湯呑みを置いて頭を下げる。
「……私のことは覚えてるわよね?」
「スミマセン」
聞き直しても同じだった。すまなさそうに頭を下げるのみ。
「いや、覚えてるわよ。ふざけんじゃないわよ。交通事故に遭いもしてないのにただストーカーしてた人がなんで記憶喪失になってるのよ。私は覚えているのに一方的に忘れられるなんて胸クソ悪いわ」
ゴキブリ兼ゴリラのくせに何様なの?近藤さんは、やっぱりすまなそうにしているだけだった。私は溜息をついて立ち上がる。
「じゃあ、仕方ありませんね」
真選組の制服を掴んで右手の平に親指を入れ込んで拳を握った。
「是が非でも思い出してもらいます」
構えた右手に力を入れると左手が掴まれた。
「すみません。今はまだ思い出せませんが、必ずあなたのことも思い出しますので。それまでご辛抱を」
いつもなら黒目の小さな三白眼のはずなのに、それは少し大きくて凛としていた。きらめく瞳に誠実な言葉。思わずドキドキしちゃった。何よ、さっきの素敵な銀サンと同じこと言っただけじゃない。恥ずかしくなって素敵な近藤サンに掴まれた手を振りほどこうとしたけれど、手首は掴まれたままだった。指で輪を作ってまるで枷のよう。手錠のつもりなの?私の瞳をタイホしてくれるつもりなの?ダメよ、近藤サン如きでドキドキするなんて。こんな誰もいないふたりきりの部屋で、こんなに近いのに見つめ合っちゃったりなんかしたら、何かがはじまっちゃうかもしれないじゃない。そんなの、ダメ……。
「時に、お訊ねしたい。あなたは俺の恋人か、婚約者か、そんな感じの人なんですか?」
え?
「いや、なんか熱っぽい目で見つめられたんでそうなのかなって……」
は?
「そ……そんなわけないじゃない。さっきみんなで話した時にも言ってたけど、あなたは私のストーカーだったのよ。あなたが一方的に私のことを好きになって、私につきまとってたんです!とっても迷惑してたんだから!」
それがどうして、私があなたを熱っぽい目で見つめていただなんて勘違いできるのかしら!?私はいつもと違う近藤さんに少しドキドキしただけで、欲情した覚えなんてないんだから!
「わかりました。すみません……」
と、近藤さんは私の手を離した。あっさりと手錠を解錠してくれたと思いきや、解放したはずの左手を取る。そして薬指に唇を押し付けた。なにしてるの、近藤さん。
「今はこれで許してください。必ずあなたのことを思い出します。そして、真の愛をあなたに誓う」
太い親指が愛おしげに左手の甲を撫でる。優しく往復する指に緊張し、体が強張った。
「あ……」
左手を握られたまま腰を引き寄せられて反射的に近藤さんの顔を見上げた。今までにない近さに目を伏せる。顔がゆっくりと近づいてくる。ダメよ、近藤さん。これ以上は私の心臓が持たないわ。あ、動悸が。あれ?息ってどうしたらできるのかしら。というか、してる最中に鼻で息してもいいものなの?混乱と若干の酸欠は、近藤さんに両肩を掴まれて解除された。予想していなかった近藤さんの動きに目をぱちぱちとさせる。
「すみません、お妙さん。つい魔が差しちまいました」
え?
「いや、ホント、マジで記憶なくしてたんですよ?けどね、お妙さんに改めてストーカーしてたって言われたあたりからその、ぼんやり思い出してきたというか……」
すっかりいつもの調子の近藤さんがそこにいた。
「するってェと何かい?ゴリラの分際で私を謀ろうとしたわけかい?あぁん?」
毒づくと近藤さんは顔を青くして肩を震わせた。
「い、いや、断じてそんなことはありません!俺の愛はいつだって真です!」
「嘘おっしゃい!信じられません!私のこと騙して口説いたあげく……」
キスまでしようとしておきながら……!!
「え!お妙さん、俺に口説かれてたんですか!」
完全に墓穴を掘っていた。もうホントお墓に入りたい気分だわ。なんなの?ほんの少しの間でも私のことあっさり忘れてたくせに。真の愛だなんて言って乙女の純情を手の平で転がしまくるような最低な人なのに。結局、この人をつけ上がらせることしかできないなんて、悔しくて堪らないじゃない。今までに経験のしたことない恥辱に全身を戦慄かせた私は、渾身の右ストレートを近藤さんの脳天にお見舞いした。畳に伏した近藤さんは、私の卵焼きを食べた時のように、束の間の沈黙の後、目を覚ました。
「君は一体誰だい?僕の知り合いなのかい?」
迷子の子犬の無垢な瞳が縋るようにこちらを見つめた。
「……すみません。いろいろ教えてくれたのに、結局僕はなんにも……」
真選組から私たちの出会い、そして今。私が知っていることをニュー近藤サンに話して聞かせた。今度こそ、本当に記憶喪失になってしまったらしい。完全にニュー近藤サンとなってしまった近藤さんにこぼす。
「もうそろそろ到着していてもいいはずなのに……」
「誰か来るんですか?それなら僕はそろそろお暇します」
「ダメよ、近藤さん。あなたのお迎えなんですから、ちゃんと待っててください。あなた、そう見えても警察のお偉いさんなんですからね。それにしてもおかしいわね。連絡してから随分経つのに、誰も来ないなんて……。何か事件でもあったのかしら」
局長が記憶喪失なのも重大な事件だと思うのだけれど。後で聞いたのだけれど、その頃、万事屋事務所に宇宙船が墜落したんだとか。なんでも同じ店のキャバ嬢仲間であるおりょうちゃんの常連のお客さんが飲酒運転しちゃったんだとか。
「……もういいですよ。僕のことは放っておいて。嫁入り前の娘さんがいるお宅にこんなムサイ男をいつまでもあがらせていてはいけません。僕のことは気にせずに、どうぞ、もう自由になってください。聞けば、君は僕に一方的に言い寄られて犯罪まがいのつきまとい行為を受けていたのでしょう。いつまでも、そんな男を留まらせる理由もないでしょうに。記憶を失って、警察という組織から見放され、僕が近藤勲という男であった証はなくなってしまった。でも、これもいい機会かもしれない。みんなの話じゃ僕はゴリラなストーカーでしかなかったようだし、生まれ変わったつもりで生き直してみようかなって」
ニュー近藤サンは一息ついてから言った。
「だから、ここへは二度と来ません」
いやに落ち着いた声だった。わざと突き放すように言っている。あなたを語るにはあなたを知らなさすぎる私にも、それくらいはわかった。そう、わかってる。真の馬鹿でないことくらい、わかってる。バカを演じるバカでしかないことくらい、わかってる。あなたと出会って、真選組の活躍をよく耳にするようになって、なんだか私が誇らしかった。そんな人達と一緒にしたお花見は楽しかった。泣く子も黙る真選組だなんて恐れられているけれど、みんなただのバカだった。バカがバカを演じてバカバカしい事件解決ばかりだけれど、そこには護られた人達の笑顔がいつもある。そんなバカを束ねるバカが真の悪人でないことくらい、簡単にわかるもの。
「そんなこと言わないでください」
コタツから出て立ち上がる近藤さんの腕を両手で引き止める。
「待って、近藤さん。あなたのお迎えが来るまでここで待ってて。何時まででも、夜が明けるまででもいいから。必ずあなたの仲間が来るから、お願い」
「すまない。君の知っているゴリラは、もう僕の中にはいない」
謝られて、そんなことを言われてしまったら何も言えなくなるじゃない。だって、私はあなたを語るほどあなたを知らないもの。私はそれを否定できないもの。引き止めていた腕を放すと、どこかへ行ってしまった。うちに真選組の人が来たのは近藤さんが出て行ってから間もなくのことだった。山崎という人は、副長に怒られるだの殺されるだのなんだのと慌てふためいて飛び出して行った。
どこへ行くの、近藤さん。私の知ってるあなたなんて、あなたを成すほんの一部分でしかないのよ。帰ってきたら、あなたのこと、もっと教えてくださいね。
君は誰、あなたはどこ
Text by mimiko.
2015/08/08