ゲリラ豪雨に襲われた近妙が雨宿りしてたり口吸いしてたりします。

にわか雨

 携帯電話の普及により、公共の場の設置数も減少傾向にあった公衆電話ボックス。そこに近藤と妙はいた。
「ひゃ~すごい雨だなァ」
 近藤は上着の襟を掴んで雨粒を地面へと振り落とす。
 食料品の買い出し途中、にわか雨に降られた。小雨なら買い物をし終えて帰宅できただろうが、豪雨とも呼べるような降りっぷりにそれも叶わず、妙は買い物を中断させた。降りしきる雨の中、雨宿りができる場所を見回していると近藤に声をかけられた。近藤は妙を少しでも濡らさないようにと真選組隊服の上着を傘代わりに広げ、ふたりは街の大通りに面した広い公園内にあるこの電話ボックスに駆けこんだのだ。
「本当にすごいですね。霧がかってて向こうが見えない……」
 呟きながら近藤を見上げた妙は、その近さにどきりとする。いつもなら取れる距離が、電話ボックスという狭い密室では取ることができない。妙は近藤から離れようと出入り口付近ににじり寄った。ぎりぎりのところに身を寄せたため、肘が開閉戸を押してしまう。後ろへ寄っていた重心がすぐに戻せず、体勢を崩しそうになったのを近藤に救われた。濡れたシャツの袖を折った腕が腰に触れている。ほどけた白いスカーフとはずされた白いシャツのボタンの隙間から覗く褐色の肌が温かい。雨に濡れてひやりとしていた頬が温まる。
「ん……」
 心地よい温かさに頬擦りする。温かいものに包まれて、まるで護られているようだ。湿った空気にさらされたままのもう片頬も暖を取らせたいと妙は顔の向きを変える。シャツと黒いベスト越しに感じる近藤の温もりがやはり心地いい。不意に香りがした。柑橘系の爽やかな香りだ。彼の首にかかったままのスカーフにもその香りがしている。スカーフの端に鼻を埋めて息を吸い込んで吐く。
「……いい香り……」
 頬を近藤の胸に寄せたまま彼を見上げた。激しく降る雨を見ているのか、近藤はこちらを見ない。
「近藤さん……?」
「……えッ?」
 心ここに非ずである。
「ああ、えっと、ははははァ~。なんか今、隊士たちの間でオードトワレ?ってのが流行ってて、粋がってちょっとつけてみたりなんかして……」
と、近藤は外を見たまま言う。
「そうなんですか……」
 妙は再び香りを嗅ぐ。
「……素敵な香りですね……」
 穏やかな妙の声によって近藤は益々、硬直した。今、動いてはいけない。下手に動いて予想外の動きをされたら対応しきれない。今、口を開いてはいけない。下手に何かを口走って殴られかかったところで本気でなし崩してしまう。
 妙はよく平気でいられるものだと感心する。嫌いだという自分の腕に納まって頬擦りして、いい香りだと褒める。自分が何をしているか理解しているのだろうか。きっと無意識だ。無意識で自分に擦り寄ってきている。やはり嫌いだというのは建前であって本音ではこうやって自分を求めたいと思っているのか。思案すればするほど八方ふさがりだ。いや、八方どころかこの透明な四面から永遠に出られないように錯覚する。それはそれで大変喜ばしいことである。妙に知れたら瞬殺されてしまうかもしれないが。いや、その妙こそがこの腕に大人しく納まっているのだ。ここから出たくないのは妙のほうかもしれない。ああ、駄目だ。やはり動けない。動けばきっとその大きな瞳を見てしまう。見てしまったら口づけられずにはいられない。もっと触れたくなって、彼女のすべてを奪いたくなるに違いない。しかし、こんなところで公開合体なぞできるはずもない。今は豪雨で視界が悪くとも、雨は直に止む。彼女の気まぐれの愛の雨は、きっと直に止む。わかっているからこそ動けない。思案は堂々巡りを始め、湿度の高い狭い空間が蒸し暑くなる。のに、妙は自分の胸に頬を寄せている。
 あの、お妙さん、暑くないですか、と声をかける言葉が思い浮かんだのに声が出ない。出せない。声をかければきっと妙はこちらを見上げる。この近距離で好きな女に上目遣いなぞされたら、わずかに残った理性など簡単に吹き飛ぶ。
「……近藤さん……」
 近藤の腕に納まったまま、妙は声をかける。
「……はい……」
「何とか言ったらどうなんですか」
「……何をですか……?」
「私がこんなことしてるんだから、ダメですとか何とか……」
 近藤はこれ以上ないほどに体を硬くした。自覚があったらしい妙の言葉に思考が真っ白になる。しかし、次の瞬間、自然と体が動く。妙を抱いて体を回転させ、緑色した公衆電話機の載る台の端に彼女を座らせる。妙の唇から視線を落とすと彼女の着物の裾が少し開いていた。白い脚が覗いている。近藤は彼女の膝に割り入り、頬に右手を伸ばした。顔を上げた妙は微かに目を細めている。ここでその顔は反則だ。いつも自分を嫌っているのに、よくもそんな待っていたみたいな顔ができたものだ。
「あなたが好きだ。俺は今、あなたに欲情してる」
と、頬に触れた右手を顎下にやる。顔を上げた妙の唇がわずかに開いた。待っている。妙は自分を待っている。気持ちも、欲も、もう止められない。
「嫌なら俺を殺す勢いで殴ってください」
と、念を押してから妙の唇に自分のそれを重ね合わせた。目を閉じた妙を至近距離で見つめる。重ねる角度を変えて再び唇を押しつける。妙は尚も目を閉じたままだった。嫌そうな表情もしなければ膝を閉じもせず、乱れた着物の裾を直そうともしない。小さな音を鳴らしながら啄む口づけを繰り返してもずっと待っている。
「お妙さん、口を開いてください……」
 促すと、唇が開かれた。その美しい桃色の唇に目を奪われた近藤は吸い寄せられるまま口づけた。感触に驚いたのかびくりとした妙の舌を捕らえて優しく撫でる。感じたのかぴくんと震えて口元が緩んだ。合わさった唾液はあふれだし、ふたりの唇を濡らす。一度、近藤が唇を離すと透明の糸が引いた。呼吸を乱しながら息を整えようとする妙の唇にまた近藤の唇が重なる。妙は大人しく受け入れ、目を閉じて近藤に応えた。妙の唇を堪能した近藤は彼女の濡れた唇を親指で優しく拭ってやった。
「すみません、やりすぎました……」
 頬を上気させ、とろりとした瞳が近藤の唇と顎髭を映し出している。腰に力が入っていないのに、背がびくりびくりと揺れ、舌が甘く痺れている。
「……っん……」
 唇が閉じてくれない。心地のいい痺れは再び愛撫されることを望んでいる。妙は、一歩下がろうとする近藤の首に両手を伸ばした。
「……離してください」
 離れることができなかった近藤は動きを止める。
「いや……」
 切なくなった妙は近藤の首に回した腕に力を入れる。
「いやです。私から離れないで、近藤さん……」
 切なさは一粒の涙となってこぼれ落ちた。
「そう言われてもなァ……。お妙さん、君は俺と今すぐ結婚する気なんてないでしょう」
「そうですけど……」
 やはりと近藤は妙の耳元で声なく苦笑いする。
「今日のは俺が一方的に悪かったんです。すみません。……もう、離してください」
「じゃあ、今すぐ結婚します。だから、もっと……」
 近藤の小さな黒目がさらに小さな点となってしまう。
「え、結婚するって、お妙さん正気ですか」
と、近藤は背を起こし、妙の顔をまじまじと見た。そんなことをしようものならば妙の信念が捻じ曲がることになる。それでいいのか。初めて会ったあの時、一体何のために自分の求婚を断ったというのだ。自分の力で家を護り、道場を復興させたかったのではなかったのか。声を出さずに問うてみたが、妙は一度も目を逸らさなかった。ああ、しまった、間違えた。ふたりきりの雨宿りで自分の得になるようなことが起こらないだろうかと出した下心に対するしっぺ返しが今になってやってきた。いつもなら妙が殴って過ちを正してくれるのに。その妙がこうして自分の虜になってしまっている。引き返しもせず、自分を求めるなど正気の沙汰とは思えない。
「あッ、雨、ましになってきたみたいですよ」
 近藤は妙から目を逸らせた。気も逸らせようとするわざとらしい演技が妙の癇に障る。外は相変わらずの豪雨だ。どの辺りがましになってきているというのか。再度、離れようと後ずさる近藤の腰に妙は両足を絡めた。
「えッ、ええ!!
 腰に巻きついた妙の足によって離れられなくなる。
「どうしました?」
「いや、どうしましたって、どうかしてるのはお妙さんのほうですよッ、こんなところでなんてことするんですかッ」
 慌てる近藤に妙はもうひと押しだと右の手を彼の唇へと伸ばした。
「まあ。そっくりそのままお返しします」
と、人差し指で下唇をなぞりながら微笑む。
「ちょ、やめてお妙さん。俺、まだ勤務中なんですってば。雨止んだら仕事戻らなきゃいけないんです」
「じゃあ、止むどころか激しいままなんですからまだ戻らなくてもいいでしょう?」
 近藤の頬を両手で挟むと頭がぎくんと揺れた。
「いいでしょうって、ダメですってば」
 妙は近藤の後頭部を抱き寄せて顔を近づける。腕を上げたために着物の袖が二の腕に滑り落ちた。視界に白い肌がちらつき、近藤は喉ぼとけを上下させる。
「今だけですから……」
 今だけ――とはなんと魅惑的な言葉だろう。今だけすべてを投げ捨てていいなど。誰にも咎められることなく、今だけはこの甘美な唇を味わうことを許されるなど。
「近藤さん……」
 お願いと云っている切なげな声が耳に残る。こんな狭い空間にふたりきり。まるで櫓立(やぐらだ)ちのような体勢で迫られてしまえばもう限界だ。近藤は唇を妙のそれに寄せた。目を閉じ、今度は最初から深く口づける。舌を絡ませ、妙からあふれ出る蜜を掻いて唇を離す。角度を変えて再び口づけると歯列をなぞってから蜜を啜った。
 また唇が合わさると思った妙の予想を裏切り、唇が触れ合わないように舌を挿し込まれ、妙は目を閉じたまま涙を滲ませる。先ほどとは違ってとても優しく撫で動く近藤の舌がいやらしかった。なのに誘われるまま舌を突き出し、口外で舌を絡ませ合う。舌先を弄ばれ、妙は鼻にかかった声を上げながら薄く目を開いた。間近でこちらを見つめられていた。
「んうぅ」
 驚いた妙は逃げたくなった。が、弄ばれていた舌を近藤の唇に捕らえられ、背中に回った腕に抱き寄せられ、合わさる唇の中を傍若無人に動き回る近藤に抗うことはできなかった。
「すみません、さっきよりやりすぎました……」
 ようやく唇を解放されると、開口一番は謝罪だった。近藤の肩に頭をもたれさせる妙は、大人の口づけに体が火照っているのを意識しながら、ただ深呼吸を繰り返す。
「あなたが俺を受け入れてしまうと、俺は歯止めが利かなくなる。だから、容易く受け入れないでください」
 自分のことを好きだとつけまわしておいて受け入れるなとはどういう了見だ。
「……立てますか?」
 妙は深呼吸をしながら首を左右に動かした。外の雨は先ほどよりも弱くなっている。しかし、まだ小雨といえるほどではない。そんなに早くここから出ていきたいのか。寂しく感じて彼のベストを掴むと、近藤の肩が離れた。寂しげな表情の妙に近藤は手を伸ばし、頬にそっと触れて言う。
「それでも俺はあなたを愛してます」
と、彼女の目元に口づけて離れた。妙の捲れた着物の裾を直し、湿ったままの隊服を頭上に広げると電話ボックスからひとり出て行ってしまった。
 最低だ。足腰を立たなくしたのにも関わらず、自分の都合でその女を置いて行ってしまうなんて。勝手に惚れてきたのはそちらのほうなのに、こちらにまで注文をつけてきた。その上、逃げ様に愛を囁くなどとんでもない。身勝手かつ最低で最悪である。惚れた弱みもあったものじゃない。いや、あるのか。結局は自分もそれにあやかるのだから。これではふたりそろって気まぐれなにわか雨である。
「それにしても私を置いていくなんてほんっと最低だわ、あのゴリラ。今度会ったら真っ先に右ストレートをくらわせてやるんだから……」
 妙は台に腰かけたまま負け惜しみを呟き、外の様子を電話ボックス内から眺めた。
 雨はまだ止みそうにない。
にわか雨
Text by mimiko.
2016/07/01

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