2015年志村妙生誕記念とハロウィンを兼ねた近妙です。ファンタジーなパラレルです。4(2)の続きでまた続きます。
カボチャの魔法使い4(3)
男は地面を蹴り飛び、言った。
「いい匂いですね、薔薇ですか?」
後ろから回されたオタエの白いブラウスの長袖からは、薔薇の匂いが香っていた。別れ際、キューベエから渡された夜風避けの赤いフードポンチョを羽織っているオタエは、風で飛びそうになったフードが捲れて声をこぼす。
「あ……」
フードは完全に捲れ、背後に落ちた。不意に目に入った夜空には大きな丸い月があった。優しい月明かりだった。
「はい、薔薇です……」
月が出ている男の目が紅い時は近寄るなと言われたが、今はしっかり近づいていないと振り落される。オタエは自分に言い訳するようにそう考えながら、ぎゅっと男に抱きつくように寄った。
きっと今、自分の目は紅いはずだ。薔薇の匂いをさらに感じたカボチャを被った男は瞳に大きな月を映し、小高い丘へと下り立った。オタエを背から下ろす。
「あの?」
オタエの町はまだ先だ。森の中にあるその丘は、月がよく見えた。木こりの休憩場所らしいそこは腰をかけるにちょうどいい切株がいくつかある。男は脱いだカボチャを傍らに置き、切株に腰掛けた。
「キューベエくんの町での話、途中だったなと思って」
急に核心ををつかれてオタエの顔が強張った。
「寒いですか?」
こちらの様子が違うこともわかっているはずなのに、男は淡々と話す。
「いいえ。この赤ずきん、温かいですから大丈夫です」
オタエは瞬きを忘れ、視界に入った切株に腰掛けた。ロングブーツを履く足を揃え、黒いショート丈のサロペットパンツの膝も揃える。数歩離れた切り株に座る男の目は紅い。カボチャを被って隠すことをしないのは、これが大事な話であることを物語っている。
「ジャックさん、誘惑……しないでくださいね……」
前置きをするオタエだったが、視線を逸らさない男に戸惑い、顔を横へ向けた。
「はい。話をしましょう」
見透かされたように感じたオタエは冷静な男の声にかっとなり、男を見た。真顔だ。こちらばかりが意識して腹立たしい。けれど、もう目を逸らさない。男に負けたくない。
「俺が何を見ようとしているのか見届けたいと言ってくれましたが、どうでしたか」
問われてオタエの目が点になった。なんだこれは、反省会なのだろうか。
「俺を見た感想は、気まぐれに若い魔族の娘をデートに誘って、いいところを見せようと気まぐれに町の揉め事を解決して、連れていた魔族の娘が人間との混血だとわかるや否や知らぬ顔をする……ですか?」
オタエはぶつけた不満が今になって自分へ跳ね返って来て胸に痛みを感じた。後悔しながら首を横に振る。
「怒ってますよね……」
「いいえ、怒ってません。ただ、あなたらしくなかった。俺たちは出会って間もない。知らないことも多い。しかし、だからこそ互いの本質を理解し合っていると思ってました。怒っていたのはあなただ、オタエさん。何に怒ってたのか教えてください」
真っ直ぐに見つめられ、ただ見つめ返す。誠実な男だ。常に真摯であろうとする。だから、魅かれた。なのに、感じたのだ。
「あなたを遠くに感じました。私の知らないことをあなたは沢山知っている。住む世界が違うって……」
オタエが視線を落とすと男は長めの瞬きをひとつした。目を伏したままのオタエを真っ直ぐに見つめて言う。
「そうでしたか、すみません。俺がいつまでも正体を明かさないでいるから、追い詰めてしまった」
男は頭を下げたままじっとしていた。
「謝らないでください。あなたは私を信用してくださっていたのに、私、疑ってたんです。本当に魔族王家の親衛隊の方なのかしらって……」
「ははは、流石だなァ。バレちゃってました?」
「いえ、まだわかりません。まだわかりたくないのかもしれません」
オタエの瞳に涙が浮かぶ。急に切なさが込みあがってくる。
「だって、わかってしまったら、あなたはきっともう会ってくれない……」
涙はすぐに溜まって溢れそうになる。
「わからなくても、今日が最後でもう会えなくなるのに、私は……」
遂に気持ちが溢れ出すように瞳から涙が流れ落ちた。
「……あなたのことが好きです……」
涙交じりに言うと、男に借りたままのネクタイがほんのりと熱を持った。男も同じ気持ちでいると思い、嬉しくなってオタエは胸を熱くする。男の返事を聞こうと、ぼやける視界で男を見た。男の眉間には皺が寄っていた。困っている顔だ。俺も好きだと言って口づけてくれることを信じて疑わなかったオタエの心が曇る。
「今日が最後になるか、ならないかは、オタエさん次第です」
男の声は落ち着いていた。そこに浮ついた感情はこめられていない。
「俺を愛せますか」
妙な緊迫感にオタエの鼓動が跳ねる。男は何を言いたいのだろう。
「俺を愛すということは、すべての魔族の妃になるということです。それでも俺を愛せますか」
「……え……?」
言葉を飲み込めていないオタエに男は言った。
「イサオ・ド・コンディ――俺の名です」
去年の十二月、魔族の王位を継承した人物の名だ。
昔から嫌な予感だけは外すことがなかった。男の正体を判明させたくなかった訳はやはりそういうことか。トシーニョがくれたヒントを素直に推測すれば簡単に導き出せた。それでも、魔族王家の親衛隊の隊長であるのだろう、魔王様であるはずがないと、ただの思い過ごしだと楽観していた。たとえ希望通りの親衛隊の隊長であったとしても、その道も険しいだろうが。
「ただ好きなだけではダメなんです。俺を信頼し、君自身が自分を信じていなければならない。自分の身は自分で護らなくてはならない。それでも俺についてこれますか。それでも俺と共に生きてくれますか」
男のいる所は信頼関係があってこその所なのか。真っ直ぐな歪まない愛、見届ける愛がなくてはつとまらない。人間であれば決してつとまらない魔王の妃――。
人間とゴリラ血族の混血である魔族としては半人前の娘には、話が大きくなりすぎだ。
「愛したいとおっしゃってくださったのは、私にその重責が担えると……?」
男は頷いた。
「あなたは正義感の強い人です。心が清くて真っ直ぐだ。そして、人を救おうとする。俺はあなたという人に魅かれ、あなたという女を愛したいと、あなたと共にありたいと、思った……」
と、男は立ち上がってオタエに近づく。
「だが、それは俺のひとりよがりだ。あなたの人生を大きく狂わせる」
男はオタエに背を向けてしゃがんだ。
「俺を好きになってくれてありがとう」
と、言う背中は話が終わったといっている。その背に負われて家へ帰されれば、もう二度と会うことはないだろう。やっと本当の名を知れたのに。人としても女としても好きだと言ったのに。自分を愛したいと言ったのに。ありがとうと言っておきながら自分を拒絶している。酷い男だ。
込みあがる切なさが涙となって頬を伝う。息苦しくなってしゃくりそうになるのを堪えて息をつく。オタエは男から離れた。赤いポンチョと男のネクタイをそのままに、ブーツを脱ぎ、服と下着を脱いだ。
「オタエさん……?」
一向に背に乗らないオタエにイサオは振り返る。月の逆光で照らされる赤いずきんの輪郭を視界に捕らえると、紅い目を光らせた。
「あなたが好きです。離れたくありません。あなたを愛せるかどうかなんてまだわかりません。それでダメなら今、ここで私を愛してください。そしたら、きっと私はあなたを愛せると誓える……!」
体が浮いたと感じたオタエは次の瞬間、イサオに押し倒されていた。
「なんてことしてくれてんですか、オタエさん」
目を閉じ、掠れた声で言うイサオの歯は、いつもなら確認できない牙がある。
「月の光を浴びたオオカミ血族の前で、美味そうな匂いをぷんぷんさせて、俺を狂わせんでください」
と、目を開いた。濃く鮮やかな紅い瞳だった。情熱的に光る目は紅い残像を引いてオタエの耳元へ行く。
「意地悪な人だ。それともまた俺を試してるんですか?ズルいですよ、オタエさん」
男はオタエの耳に鼻先を近づけ、匂いを嗅ぐ。息がかかったオタエの肩が竦んだ。
「ああ……、薔薇の甘い香りと、あなたの匂い……堪らねェ……」
感嘆し、舌なめずりをする小さな水音がオタエの耳に響く。
「すごく、美味そうだ……」
と、イサオはもう片方の耳にも鼻を近づけた。
「このかわいい耳も、喰っちまいたくなるくらい、いい匂いがしてる……」
オタエの匂いに酔ったイサオの声が低く響く。狼の囁きに頬を熱くしたオタエは目をつむり、イサオは顔を上げた。
月明りに照らされたオタエの白い肌に自分の黒いネクタイが触れているのがいやらしい。このまま何にも囚われることなく目の前の獲物を味わいたい。しかし、それは己の欲情を満たすだけでしかない。今まで何のために手を出さずに我慢していたのだ。
イサオは込みあがる愛の言葉も、立場における言い訳も、飲み込み、オタエがしている自分のネクタイを魔力で解いた。彼女の服を裸のオタエの上にそっと置き、首元のネクタイを摘まんで服の山から抜き去る。
「押し倒したりして、すみません。あなたはとても魅力的な女性です。だが、できません。帰りましょう。服を着てください」
と、オタエに背を向け、カボチャを被った。
「……はい……」
オタエは懸命に堪えた。今、泣き出せば、彼を困らせるだけだ。自分を好きだというイサオなのに、抱いてくれと頼んでも一度も触れてこなかった。
身支度を整えるオタエは知らぬ間に敷かれていたイサオのスーツにどきりとする。
あんなふうに押し倒したのにもかかわらず、本能を剥きだしていたわけではなかったのだ。女であることを武器に血族ならではの弱点を突いたつもりだったのに、それでも男には勝てなかった。
オタエはイサオの上着を拾い、草やほこりを掃ってイサオの背に差し出した。
「これ、ありがとうございました……」
振り返ったイサオは元気のないオタエを見下ろし、目を伏せる。
「いえ」
短く返事し、それを着るとしゃがむ。
「どうぞ」
月と自分に背を向けあちらを向いている。彼はもう振り返らない遠い人なのだ。
「失礼します……」
オタエは断わりを入れてイサオの背中に体重を預けた。イサオはオタエの足を支え、立ち上がる。進む方向へと体を向け、地面を蹴り高く飛んだ。
「あの、聞いてもいいですか」
「なんですか?」
「不思議だったんです。戦争時代の因縁のある血族同士をどうして同じ町に住まわせたんですか?王家がそんなことをさせなければ、いらない争いを防げたんじゃないかって思って……」
先ほどは自ら痴情をもつれさせたというのに頭の切り替えが速い。イサオは、控えめに笑って答える。
「隔離することだけが問題解決に繋がるとは思えません。確かに血族同士の揉め事は日常的にある。でも、それは血が違うだけの話ですか。魔族が使い魔と呼ばれていた頃、同じ血が流れている人間同士の争いは絶えなかった」
オタエは、はっとした。
「確かに……」
「血は異なっても、互いを認め合い、より暮らしやすい世になればいいと思います」
オタエは思わず笑みをこぼした。それに気づいたイサオに謝る。
「すみません。今のはとても魔王様らしかったなと思って」
「あ、やっぱ魔王らしくなかったですか?だよなァ……。まあ、まだ親衛隊隊長歴のほうが長いですから、大目に見てください。てか、俺が何者なのかって、内緒ですよ」
「ええ、わかってますよ」
オタエは笑みをこぼしながらイサオに寄り添った。
楽しい時間は、あっという間に終わる。一昨日、豊穣の鍋を食べ歩きに出かけた時の別れ際もこんな気分だった。いや、それよりも重症化している。別れの時は笑顔で、という彼の気遣いがあるからこそ余計に重症と化している。
オタエの自宅に到着するとイサオはカボチャを脱いでオタエに向き合った。
「かわいい友人ができて嬉しかった。少しの時間だったけれど、とても有意義で楽しい時を過ごせました。俺につき合ってくれてありがとう、オタエさん」
イサオの声は朗らかだったが、オタエの顔を見て切なげに笑った。笑顔で別れなければいけないという重圧に押し潰されそうなオタエの目には涙がたまっていた。泣き顔を見せてはいけないと、オタエは俯く。流れた沈黙を破ったのはイサオだった。
「どうか元気で、幸せに……」
声がして顔を上げたオタエの視界に寂しそうに笑うイサオがいた。それが最後の言葉だとわかり、オタエの胸は悲鳴を上げる。
嫌だ、離れ離れになりたくない。置いて行かないで、一緒に連れて行って。ずっと傍にいて。
生前の両親との最後の時と重なった。足は動かず、手も動かず、ただ彼が去るのを見ているだけだった。庭でひとり泣き崩れていると、弟が背中をさすってくれた。
「いい匂いですね、薔薇ですか?」
後ろから回されたオタエの白いブラウスの長袖からは、薔薇の匂いが香っていた。別れ際、キューベエから渡された夜風避けの赤いフードポンチョを羽織っているオタエは、風で飛びそうになったフードが捲れて声をこぼす。
「あ……」
フードは完全に捲れ、背後に落ちた。不意に目に入った夜空には大きな丸い月があった。優しい月明かりだった。
「はい、薔薇です……」
月が出ている男の目が紅い時は近寄るなと言われたが、今はしっかり近づいていないと振り落される。オタエは自分に言い訳するようにそう考えながら、ぎゅっと男に抱きつくように寄った。
きっと今、自分の目は紅いはずだ。薔薇の匂いをさらに感じたカボチャを被った男は瞳に大きな月を映し、小高い丘へと下り立った。オタエを背から下ろす。
「あの?」
オタエの町はまだ先だ。森の中にあるその丘は、月がよく見えた。木こりの休憩場所らしいそこは腰をかけるにちょうどいい切株がいくつかある。男は脱いだカボチャを傍らに置き、切株に腰掛けた。
「キューベエくんの町での話、途中だったなと思って」
急に核心ををつかれてオタエの顔が強張った。
「寒いですか?」
こちらの様子が違うこともわかっているはずなのに、男は淡々と話す。
「いいえ。この赤ずきん、温かいですから大丈夫です」
オタエは瞬きを忘れ、視界に入った切株に腰掛けた。ロングブーツを履く足を揃え、黒いショート丈のサロペットパンツの膝も揃える。数歩離れた切り株に座る男の目は紅い。カボチャを被って隠すことをしないのは、これが大事な話であることを物語っている。
「ジャックさん、誘惑……しないでくださいね……」
前置きをするオタエだったが、視線を逸らさない男に戸惑い、顔を横へ向けた。
「はい。話をしましょう」
見透かされたように感じたオタエは冷静な男の声にかっとなり、男を見た。真顔だ。こちらばかりが意識して腹立たしい。けれど、もう目を逸らさない。男に負けたくない。
「俺が何を見ようとしているのか見届けたいと言ってくれましたが、どうでしたか」
問われてオタエの目が点になった。なんだこれは、反省会なのだろうか。
「俺を見た感想は、気まぐれに若い魔族の娘をデートに誘って、いいところを見せようと気まぐれに町の揉め事を解決して、連れていた魔族の娘が人間との混血だとわかるや否や知らぬ顔をする……ですか?」
オタエはぶつけた不満が今になって自分へ跳ね返って来て胸に痛みを感じた。後悔しながら首を横に振る。
「怒ってますよね……」
「いいえ、怒ってません。ただ、あなたらしくなかった。俺たちは出会って間もない。知らないことも多い。しかし、だからこそ互いの本質を理解し合っていると思ってました。怒っていたのはあなただ、オタエさん。何に怒ってたのか教えてください」
真っ直ぐに見つめられ、ただ見つめ返す。誠実な男だ。常に真摯であろうとする。だから、魅かれた。なのに、感じたのだ。
「あなたを遠くに感じました。私の知らないことをあなたは沢山知っている。住む世界が違うって……」
オタエが視線を落とすと男は長めの瞬きをひとつした。目を伏したままのオタエを真っ直ぐに見つめて言う。
「そうでしたか、すみません。俺がいつまでも正体を明かさないでいるから、追い詰めてしまった」
男は頭を下げたままじっとしていた。
「謝らないでください。あなたは私を信用してくださっていたのに、私、疑ってたんです。本当に魔族王家の親衛隊の方なのかしらって……」
「ははは、流石だなァ。バレちゃってました?」
「いえ、まだわかりません。まだわかりたくないのかもしれません」
オタエの瞳に涙が浮かぶ。急に切なさが込みあがってくる。
「だって、わかってしまったら、あなたはきっともう会ってくれない……」
涙はすぐに溜まって溢れそうになる。
「わからなくても、今日が最後でもう会えなくなるのに、私は……」
遂に気持ちが溢れ出すように瞳から涙が流れ落ちた。
「……あなたのことが好きです……」
涙交じりに言うと、男に借りたままのネクタイがほんのりと熱を持った。男も同じ気持ちでいると思い、嬉しくなってオタエは胸を熱くする。男の返事を聞こうと、ぼやける視界で男を見た。男の眉間には皺が寄っていた。困っている顔だ。俺も好きだと言って口づけてくれることを信じて疑わなかったオタエの心が曇る。
「今日が最後になるか、ならないかは、オタエさん次第です」
男の声は落ち着いていた。そこに浮ついた感情はこめられていない。
「俺を愛せますか」
妙な緊迫感にオタエの鼓動が跳ねる。男は何を言いたいのだろう。
「俺を愛すということは、すべての魔族の妃になるということです。それでも俺を愛せますか」
「……え……?」
言葉を飲み込めていないオタエに男は言った。
「イサオ・ド・コンディ――俺の名です」
去年の十二月、魔族の王位を継承した人物の名だ。
昔から嫌な予感だけは外すことがなかった。男の正体を判明させたくなかった訳はやはりそういうことか。トシーニョがくれたヒントを素直に推測すれば簡単に導き出せた。それでも、魔族王家の親衛隊の隊長であるのだろう、魔王様であるはずがないと、ただの思い過ごしだと楽観していた。たとえ希望通りの親衛隊の隊長であったとしても、その道も険しいだろうが。
「ただ好きなだけではダメなんです。俺を信頼し、君自身が自分を信じていなければならない。自分の身は自分で護らなくてはならない。それでも俺についてこれますか。それでも俺と共に生きてくれますか」
男のいる所は信頼関係があってこその所なのか。真っ直ぐな歪まない愛、見届ける愛がなくてはつとまらない。人間であれば決してつとまらない魔王の妃――。
人間とゴリラ血族の混血である魔族としては半人前の娘には、話が大きくなりすぎだ。
「愛したいとおっしゃってくださったのは、私にその重責が担えると……?」
男は頷いた。
「あなたは正義感の強い人です。心が清くて真っ直ぐだ。そして、人を救おうとする。俺はあなたという人に魅かれ、あなたという女を愛したいと、あなたと共にありたいと、思った……」
と、男は立ち上がってオタエに近づく。
「だが、それは俺のひとりよがりだ。あなたの人生を大きく狂わせる」
男はオタエに背を向けてしゃがんだ。
「俺を好きになってくれてありがとう」
と、言う背中は話が終わったといっている。その背に負われて家へ帰されれば、もう二度と会うことはないだろう。やっと本当の名を知れたのに。人としても女としても好きだと言ったのに。自分を愛したいと言ったのに。ありがとうと言っておきながら自分を拒絶している。酷い男だ。
込みあがる切なさが涙となって頬を伝う。息苦しくなってしゃくりそうになるのを堪えて息をつく。オタエは男から離れた。赤いポンチョと男のネクタイをそのままに、ブーツを脱ぎ、服と下着を脱いだ。
「オタエさん……?」
一向に背に乗らないオタエにイサオは振り返る。月の逆光で照らされる赤いずきんの輪郭を視界に捕らえると、紅い目を光らせた。
「あなたが好きです。離れたくありません。あなたを愛せるかどうかなんてまだわかりません。それでダメなら今、ここで私を愛してください。そしたら、きっと私はあなたを愛せると誓える……!」
体が浮いたと感じたオタエは次の瞬間、イサオに押し倒されていた。
「なんてことしてくれてんですか、オタエさん」
目を閉じ、掠れた声で言うイサオの歯は、いつもなら確認できない牙がある。
「月の光を浴びたオオカミ血族の前で、美味そうな匂いをぷんぷんさせて、俺を狂わせんでください」
と、目を開いた。濃く鮮やかな紅い瞳だった。情熱的に光る目は紅い残像を引いてオタエの耳元へ行く。
「意地悪な人だ。それともまた俺を試してるんですか?ズルいですよ、オタエさん」
男はオタエの耳に鼻先を近づけ、匂いを嗅ぐ。息がかかったオタエの肩が竦んだ。
「ああ……、薔薇の甘い香りと、あなたの匂い……堪らねェ……」
感嘆し、舌なめずりをする小さな水音がオタエの耳に響く。
「すごく、美味そうだ……」
と、イサオはもう片方の耳にも鼻を近づけた。
「このかわいい耳も、喰っちまいたくなるくらい、いい匂いがしてる……」
オタエの匂いに酔ったイサオの声が低く響く。狼の囁きに頬を熱くしたオタエは目をつむり、イサオは顔を上げた。
月明りに照らされたオタエの白い肌に自分の黒いネクタイが触れているのがいやらしい。このまま何にも囚われることなく目の前の獲物を味わいたい。しかし、それは己の欲情を満たすだけでしかない。今まで何のために手を出さずに我慢していたのだ。
イサオは込みあがる愛の言葉も、立場における言い訳も、飲み込み、オタエがしている自分のネクタイを魔力で解いた。彼女の服を裸のオタエの上にそっと置き、首元のネクタイを摘まんで服の山から抜き去る。
「押し倒したりして、すみません。あなたはとても魅力的な女性です。だが、できません。帰りましょう。服を着てください」
と、オタエに背を向け、カボチャを被った。
「……はい……」
オタエは懸命に堪えた。今、泣き出せば、彼を困らせるだけだ。自分を好きだというイサオなのに、抱いてくれと頼んでも一度も触れてこなかった。
身支度を整えるオタエは知らぬ間に敷かれていたイサオのスーツにどきりとする。
あんなふうに押し倒したのにもかかわらず、本能を剥きだしていたわけではなかったのだ。女であることを武器に血族ならではの弱点を突いたつもりだったのに、それでも男には勝てなかった。
オタエはイサオの上着を拾い、草やほこりを掃ってイサオの背に差し出した。
「これ、ありがとうございました……」
振り返ったイサオは元気のないオタエを見下ろし、目を伏せる。
「いえ」
短く返事し、それを着るとしゃがむ。
「どうぞ」
月と自分に背を向けあちらを向いている。彼はもう振り返らない遠い人なのだ。
「失礼します……」
オタエは断わりを入れてイサオの背中に体重を預けた。イサオはオタエの足を支え、立ち上がる。進む方向へと体を向け、地面を蹴り高く飛んだ。
「あの、聞いてもいいですか」
「なんですか?」
「不思議だったんです。戦争時代の因縁のある血族同士をどうして同じ町に住まわせたんですか?王家がそんなことをさせなければ、いらない争いを防げたんじゃないかって思って……」
先ほどは自ら痴情をもつれさせたというのに頭の切り替えが速い。イサオは、控えめに笑って答える。
「隔離することだけが問題解決に繋がるとは思えません。確かに血族同士の揉め事は日常的にある。でも、それは血が違うだけの話ですか。魔族が使い魔と呼ばれていた頃、同じ血が流れている人間同士の争いは絶えなかった」
オタエは、はっとした。
「確かに……」
「血は異なっても、互いを認め合い、より暮らしやすい世になればいいと思います」
オタエは思わず笑みをこぼした。それに気づいたイサオに謝る。
「すみません。今のはとても魔王様らしかったなと思って」
「あ、やっぱ魔王らしくなかったですか?だよなァ……。まあ、まだ親衛隊隊長歴のほうが長いですから、大目に見てください。てか、俺が何者なのかって、内緒ですよ」
「ええ、わかってますよ」
オタエは笑みをこぼしながらイサオに寄り添った。
楽しい時間は、あっという間に終わる。一昨日、豊穣の鍋を食べ歩きに出かけた時の別れ際もこんな気分だった。いや、それよりも重症化している。別れの時は笑顔で、という彼の気遣いがあるからこそ余計に重症と化している。
オタエの自宅に到着するとイサオはカボチャを脱いでオタエに向き合った。
「かわいい友人ができて嬉しかった。少しの時間だったけれど、とても有意義で楽しい時を過ごせました。俺につき合ってくれてありがとう、オタエさん」
イサオの声は朗らかだったが、オタエの顔を見て切なげに笑った。笑顔で別れなければいけないという重圧に押し潰されそうなオタエの目には涙がたまっていた。泣き顔を見せてはいけないと、オタエは俯く。流れた沈黙を破ったのはイサオだった。
「どうか元気で、幸せに……」
声がして顔を上げたオタエの視界に寂しそうに笑うイサオがいた。それが最後の言葉だとわかり、オタエの胸は悲鳴を上げる。
嫌だ、離れ離れになりたくない。置いて行かないで、一緒に連れて行って。ずっと傍にいて。
生前の両親との最後の時と重なった。足は動かず、手も動かず、ただ彼が去るのを見ているだけだった。庭でひとり泣き崩れていると、弟が背中をさすってくれた。
カボチャの魔法使い4(3)
Text by mimiko.
2015/11/06