2015年志村妙生誕記念とハロウィンを兼ねた近妙です。ファンタジーなパラレルです。4(1)の続きでまた続きます。
カボチャの魔法使い4(2)
豊穣の鍋を食べ歩きすることが出来るとは思ってもみなかった。物心がつく頃、母に連れられて鍋の炊き出しの様子を見ていた。ハロウィンは毎年恒例の行事であり、その時期に他の町へ出かけることは考えもしなかったのだ。主な移動手段は馬車だ。遠出をするには早朝か夜間。到着する時刻を計算して出発時刻を決める。それをしなくていいのだから便利な魔力だ。
「ひとつ目もふたつ目の町も特にいざこざもなく、どっちの鍋も美味くてよかったですね!」
と、地面を蹴り、高く飛んだ。大きな川の中州までやってくると、もう一度飛んだ。川縁まで飛ぼうとしたカボチャ男の首をオタエは締めてしまう。河川に流されている犬を見つけたのだ。
「んぐ!ちょ、やめて、首締まるッ!」
「ジャックさん、あれ!」
バランスを崩したが川縁に着いた。カボチャ男は水に片足を浸からせてしまったが、オタエは無事だった。ひと息入れる前にカボチャ男は河川を振り返る。上流から何かが流れてきているのが確認できた。助けに行こうとするが、男は足を止めた。素早くカボチャを脱ぎ転がし、オタエと向き合う。一瞬、躊躇ったが険しい顔をしながらもオタエの腰を抱き寄せ、もう一方の手で彼女の唇を割った。驚くオタエが声を発する間もなく男の唇が重なる。熱い舌がオタエのそれを嬲り、思考回路を溶かす。初めての感覚に舌が麻痺し、絡められた唾液がオタエの唇から溢れ出た。全身の力が抜け、男が離れるとオタエはその場にへたる。ぼんやりとした男の後ろ姿が視界に入った。水面の上を飛ぶ男は裸である。尻まで丸見えだ。瞬きを繰り返してみるが、やはり全裸だった。冷たい河の中へ飛び込み、犬を抱えながら水をかいて川縁に辿り着く。男も助けた犬も無事で、ほっと息をついたオタエだったが、何者かの視線を感じてそちらを見た。しかし、見慣れたものに遮られており、オタエはまた瞬きを繰り返した。男の着ていたスーツにシャツだ。ネクタイと下着まである。それらは、オタエを護るように壁になっていた。
この視線から護るためだろうか。オタエは服の隙間から林のほうを見た。暗闇に光る目がいくつもあり、こちらをずっと見ている。
「狼……?」
「いや、犬ですね」
と、男はオタエと同じように林に潜む犬を眺める。服の壁で胸部から下腹部は見えなかったが、素足だった。服の壁をよく見れば、靴下と靴まで壁になっている。足元には先ほどの犬は見当たらず、訊ねた。
「助けた犬はどうしたんですか?」
「帰って行きました」
朗らかに笑うが、その視線は犬に向いているままだ。
「この辺りは奴らの縄張りのようです。こっちを警戒してる。オタエさん、立てますか」
と、男は右手にカボチャを持ち、左手でオタエの腕を掴んで立ち上がるのを補助した。
「さっきの、マーキングだったんです」
男はオタエの腕を引き、壁を解除した服と彼女を背負って地面を蹴った。空高く飛ぶ。夜空は月が隠れ、小さな星がいくつも輝いていた。
「あなたを誰にも奪われたくなかった。なのに、俺が奪ってしまった。すみません、本当に」
全裸の男に背負われて背中越しに謝られ、どれから突っ込めばいいのかわからない。
「あの、寒くないんですか……?」
謝罪に対する返答がなく、男は拍子抜けた。
「え、怒ってないんですか」
「いいえ、それなりに怒ってます。でも、今怒ると危険でしょう?さっきも首締まるからやめてって言いながらバランス崩してたし……」
「だって、オタエさん、力強いんだもん」
いい大人の男性が少女のような口調だ。先ほどの研ぎ澄まされた真剣な様子と真逆でふにゃふにゃである。頼りになるのか、ならないのか、どっちなのだろう。でも、信頼している。でなければ、こうして身を預けたりしない。出会って間もないのに、何故か心から信頼できる。不思議だ。
オタエは、男の太い首に顔を寄せ、腕を巻き直して男を抱き締めた。
三つ目の町の中心部近くに到着し、いつも通り人気のない路地裏に下り立つ。カボチャ男の背から下りたオタエは、路地裏から広場を窺った。するとカボチャを脱いだ男に後ろから抱き締められる。
「またマーキングさせてください」
と、首筋に唇を押しつけられ、鼓動を跳ねさせたオタエは身を捩った。
「ちょっ、待って、ください……っ……」
「ダメです、待ってられません……」
と、今度は舌を這わせられた。男の唾液に濡らされた首筋がぞくりとする。胸がざわついて、変な声が上がりそうになるのを堪え、両手を握って背後の男の腹部に向かって両肘を強く打ちこんだ。
「ふぐゥゥゥ!!」
男はしゃがみ込んで痛がっていたが、すぐにオタエの足首を掴んで上へと引っ張り上げた。尻もちをつくと思ったオタエは目をつむった。尻に痛みを全く感じず、また、地面を直に座っている感じではなかった。おそるおそる目を開くと男にパンプスを脱がされているではないか。
「ちょっと、何してるんですか?!」
慌てたオタエは両足をばたつかせて男を蹴る。
「いだッ、ちょッ、オタエさん、落ち着いてッ、そんなアレじゃないからッ」
「はッ?!そんなアレじゃないって、あなた、急に発情してるじゃないですかッ!さっきのキスだって、私まだ怒ってるんですよッ!」
「いやだから、いでッ、これは別に発情してるわけじゃないんだってッ」
と、男に両足を捕らえられてしまった。また掴まれた足を引かれ、オタエはひっくり返ってしまうと目をつむる。が、男に背中を抱かれ、頭も背も打たなかった。よく見れば男は上着を着ていない。オタエの尻にそれが敷かれており、男は両膝をオタエへと寄せた。太腿の下に硬い筋肉質な膝が入る。身動きが取れなくなったオタエは口を噤んだ。羞恥でどうにかなりそうだ。緊張で下唇を噛む。
「さっきのキスは、本当にすみません。何も言わずにすべきじゃなかった。ただの野犬だったらマーキングは不要だった。だが、遠目じゃイヌ血族なのか野犬なのか見分けがつかなかった。あなたの匂いを手っ取り早く消したかったんです」
口づけられる前の男の表情から何か理由があるのだろうとは思ったが、そういうことだったのか。オタエは謝ろうと口を開いたが男に人差し指を唇に押し当てられた。男の唇は、しーっと言っている。声を発するのをやめたオタエは唇を閉じ、男は頷く。
「ここはイヌ血族の町です。話には聞いていたが、こんなにも状況が悪いとは思ってなかった。俺のミスです。あなたを連れてくるべきじゃなかった。今すぐにでもあなたを家へ帰したい。だが、俺はこの町の豊穣の鍋も食ってみたいんです。つき合ってくれますか?」
確かにこの町はオタエの町まで遠い。この時刻だ。一度、町へ帰ってこの町に戻ってくる頃には今日の炊き出しは終了しているだろう。
今までいろんな町へ行った。落し物に迷子の捜索、喧嘩の仲裁、食材調達の手伝い――様々なことを彼と共にした。嫌な顔ひとつせず、町の人々の声に耳を傾けていた。彼が何を見ようとしているのか、最後まで見届けたい。
「はい」
オタエは頷き、にこりと笑った。その笑顔につられた男もにこりと笑う。
「じゃ、遠慮なく」
と、耳に口づける。
「え、ちょっと、ジャックさんッ、だからなんでそういうことするんですかッ」
「マーキングです」
ちゅっと音を立てて頬に口づけられる。強引な口づけとは違うかわいらしい口づけだった。
「あの、どうしてマーキングが必要なんですか」
「ここ十年、イヌ血族間で感染症が流行ってる。それが原因で女性が早くに亡くなる。イヌ血族は女性が希少なんです。この町には他の血族はほぼいない。だから、女性は奪い合いになる。元々、縄張り意識の高い血族です。余所者を容易く受け入れはしない。しかし、この町に迷い込んでしまったら、女性は奪い合いになる。血族は関係ない」
男は苦虫を噛みしめたように険しい顔をした。
「……やっぱり、あなたを家に帰します」
思い詰めた男の表情にオタエは微笑んだ。男の唇に人差し指を当てて首を横に振る。
「あなたが、何を見ようとしているのか、見届けたいんです。だから、帰りません。あなたが護ってくださるのでしょう」
オタエの絶対的信頼に胸が熱くなり、男は目を閉じた。目頭が熱くなる。
「あなたを愛したい……」
切なげな声で告白され、オタエは胸を熱くした。目を開いた男は視線を落として乾いた笑みをこぼす。
「はは、すみません。こんな襲うかっこしときながら、何言ってんだって感じですよね」
と、オタエの右手を取り、手首の裏側を舐め、手首を返すと甲から腕へと舐め上げた。左も同様に舐める。次は首だと、男は顔を上げた。オタエの視線に気づいた男は目を合わせる。
「そんなふうに思ってくださるんなら、あなたのことを教えてください」
迷いのないオタエの声に男は苦笑した。
「きっと後悔しますよ」
「しないわ。知らないままでいるほうが、このままでいるほうが、きっと後悔する……」
涙を堪えるオタエの声が微かに震えた。男は正座し、オタエを膝の上に座らせた。首に男の舌が這う。鎖骨から顎へと舐め上げられる度、ぞくぞくとしたものが駆け上がる。唾液を塗りつけられて鳴る水音がいやらしい。オタエは上がりそうになる声が洩れないようにと唇を噛んだ。
「オタエさん、そんなに唇噛んじゃダメです」
優しい声に諭される。
「でも、変な声が……」
恥ずかしがるオタエがかわいらしい。男は、はにかんだ。唇を重ね合わせてすぐに離した。もう一度重ねてはすぐに離す。啄むような口づけを繰り返し、言う。
「キスしてもいいですか?」
確認され、オタエは目を丸くした。つい先ほどの口づけはなんだったのだろう。
「あの、キスなら、さっきからしてますよね……?」
「あんなのは挨拶です」
と、言った男の頬をオタエは右の親指と人差し指で強く挟んだ。男の口が縦に開く。
「どの口が『挨拶』だと言いました?」
「へ、なんれしょんな怒ってりゅんれすか」
「誰にでも『挨拶』するっていうことなんですよね?」
と、いうオタエの声は怒りが籠っている。慌てた男は言い訳した。
「違いますって、オタエさんを好きっていう挨拶で、社交的挨拶としての意味じゃないですって」
オタエの疑っている眼差しに、男は顔を緩めた。
「やきもちやいてくれてるんですね。嬉しいです」
と、微笑む。図星を差されて悔しくなり、オタエは男の頬を放して唇を重ねた。ぎこちなさに愛しくなり、男は口づけに応じた。オタエは、優しく甘い口づけにくぐもった声を洩らす。初めての口づけとまったく違うそれなのに、その時の感覚をよみがえらせた。自分の意志と反して胸がざわめき、舌が痺れる。唇を離されて切なさが募った。もっと口づけて欲しい。オタエが男を見ると、男も切なげな顔をしていた。胸が苦しくなった。どうしてそんな切なく寂しそうな顔をするのかは、見当がついている。引き止めようと名を呼びたいのに、彼の名を知らない。
「……」
オタエは開いた唇を閉じた。仮の名ではなく、本当の名を呼びたい。
「俺の唾液まみれですみません」
男はすまなそうに笑いながらオタエを先に立たせた。
「この町にいる間だけでいいんで辛抱してください。鍋、貰いにいきましょうか」
と、男は広場に向かう。
「カボチャ、被らなくていいんですか?」
「ああ、はい。俺たちが余所者であることはもう知られてるでしょう」
建物の屋上で何者かの気配を感じた。オタエが見上げると同時に何かが立ち去る。
「それに、すぐにまじないをしやすいし」
「まじない?」
「マーキングするなら匂いの強いものが適してる。唾液じゃ弱いですから」
と、男はオタエに振り返って続ける。
「精とか尿とかがいいけど、そんなのオタエさんにぶっかけられまッ目がッ、目がァァァァ!!」
下品な発言にオタエは人差し指と中指で男の目を突いてやった。女々しく泣き言を言いながら目蓋を押さえる男は鍋の匂いをたどりながら足を進める。
「やっぱオタエさんは容赦ねーなァ。そういうところ好きですけどね」
と、広場手前までやってくると足を止めた。
「俺はオタエさんから離れません。オタエさんも俺から離れないでください」
初めて出会った日に聞いたような、その気のない口説き文句にくすりと笑い、オタエは「はい」と返事した。
鍋の炊き出しに並ぶのもイヌ血族――。炊き出しを振る舞うのもイヌ血族――。オタエは警戒していたが、無事に鍋を貰えたし、特に何かを言われるでもちょっかいを出されるでもなかった。拍子抜けだ。男が言っていたことを疑っているわけではない。実際、町の広場で見かけるのは大抵男性ばかりだ。女性を見かけたのは数人にとどまる。しかし、他の町同様ににぎやかなハロウィンの雰囲気だ。町の様子を窺っていたオタエの横で、男はイヌ血族旧家の長い髪の青年と話している。
「そこの君!危なーいィ!!」
声が上から降ってきたと思いきや、男は蹴り倒され、その声の主に踏み抜かれた。黒い長い髪を後ろで結わえた眼帯の若い女剣士だ。オタエは跪いて男を気遣う。
「ジャックさん、大丈夫ですか!?あなた、いきなり何を……!……え?キュウちゃん……?」
女剣士を見上げたオタエは、それが旧友との再会だったことに驚いた。
彼女は、十年前、オタエの町へやって来て五年前まで近所に住んでいたキューベエ・デ・ヤギューである。眼帯で隠された左の目には、クラスメイトであったヒョウ血族からオタエを護った時に負った傷が残っている。
「オタエちゃん……?」
「若?今、オタエ殿って……」
男と話していたイヌ血族旧家の青年は、よく見ると知った顔だった。
「これはこれはオタエ殿、お久しぶりでございます」
と、アユム・トージョーの細い目が弧を描く。
「え、さっきまでオタエちゃんと話していたんじゃなかったのか、トージョー?」
「いえ、話していたのは今、若が踏んでる方です。まさかジャック殿のお連れ様がオタエ殿だったとは」
トージョーが話している間、キューベエの眉間に皺が寄っていた。オタエの匂いがしないのだ。確認をと、オタエの匂いをたどろうとするが、彼女の匂いは薄い。むしろ、踏んでいる男の匂いがオタエからしている。キューベエはオタエの手を取った。まさかとは思うが本人に確認する。
「オタエちゃん、ひょっとして、この男といい感じにアレしてきた後なのか?」
キューベエの大きな右の瞳は戸惑いで揺れている。
「いやねえ、キュウちゃん。そんなんじゃないのよ」
と、自分の手を握るキューベエの手をもう一方の手で覆った。
「しかし、オタエちゃん……」
会わなくなって五年経つが、それと同じ長さを教室や放課後で過ごした。オタエが真面目な少女であったことをキューベエはよく知っている。軽い気持ちで男と接触したりするはずがない。となれば、真剣交際ということになる。結論を出しておきながら、キューベエのはらわたは、踏みつけている男への嫌悪で煮えていた。美しく、清く正しいオタエに憧れていた。憧れ過ぎて友情なのか恋情なのか、自分でもわからないほどに好きだった。
剣術を教える父の転勤で町を転々としていたが、腰をぎっくりといわせてしまったのをきっかけに、故郷であるこの町に帰った。すると、原因不明の感染症が蔓延。それによってイヌ血族の女性は希少となり、剣術第一だった父によって男性のように育てられていたのにもかかわらず、女性らしくしろと言われて五年。ストレスフルだった五年。その五年の間に憧れの女友達は、美に磨きをかけて尻軽に変貌を遂げたというのか。そうは思いたくないのに、悪い方向へと考えが行く。
「何を泣いているのよ、キュウちゃん。そんなに私と会えたのが嬉しかった?」
優しく微笑むオタエに顔を覗きこまれ、キューベエは涙を次から次へと溢れさせた。
女性が少ないこの町の治安を魔族警備隊のひとりとして護ってきた。父の教育方針として男性のように育てられてきたが、その気心もぶれはじめていた時、気の許せる女友達と再会したのだ。こんなにも自分の心は脆かったのか。
キューベエは鼻を啜り、男の背中を踏んででも自分を抱き締めてくれるオタエの温もりに目を閉じた。心が安らぎ、涙が引いてくる。なのに、鼻水で嗅覚が鈍っていてもオタエから匂ってくる男の匂いが恨めしく、オタエに気づかれないよう、舌打ちをした。足蹴にしている男へ優越感を醸し出してやろうと目を開いて下を見た。が、男は足元にいなかった。自分を抱き締めているオタエの肩越しに男の背中を見る。
いつの間に抜け出したのだ。確かに自分は男を踏んだし、オタエも踏んだ。潰れた小さな男の呻きもその時に聞いた。その背中に注視する。男は高い建物の屋上を気にしているようだ。
キューベエには心当たりがあった。ある旧家で育った男が魔力に溺れ、暴走していると。旧家の男は若者たちを集め、日々、面白おかしく過ごしている。男は勘当されたが、この町から出すわけにはいかない。旧家の男のグループと警備隊の静かな牽制が続いている中、グループは遂に女狩りと称した危険な遊びを始めた。女性を生け捕り、魔力がより強い者の戦利品にするというものだ。女性に拒否権はあるらしいが、まったくの無傷ではいられない。女性にその気がなく、また意思が強いほど負傷するに至った事案が過去にあった。
キューベエは、頭を撫でてくれていたオタエに礼を言い、大丈夫だと微笑んだ。携えていた剣を抜いて男の背後から耳元へ剣先を向ける。
「遠足気分でこんなところまで来られちゃ困る。君は、この町の事情を知らないのか。いや、そんなはずはない。わずかな時間でオタエちゃんの町からこの町に来るくらいだ。知らないわけがない。何故、連れてきた。オタエちゃんを連れてとっとと帰れ」
剣を握るキューベエの目が鋭く光る。
「若!その方は……!」
「いいんだ、トージョー。僕だってバカじゃない。自分のやってることの意味くらい理解してる」
男は背を向けたまま両手を上げて言う。
「わかった。帰ろう。オタエさん、この一件が片づいてから帰りましょう」
「話をきいてなかったのか。帰れと言っている。今すぐ帰れ」
「ひとつ目もふたつ目の町も特にいざこざもなく、どっちの鍋も美味くてよかったですね!」
と、地面を蹴り、高く飛んだ。大きな川の中州までやってくると、もう一度飛んだ。川縁まで飛ぼうとしたカボチャ男の首をオタエは締めてしまう。河川に流されている犬を見つけたのだ。
「んぐ!ちょ、やめて、首締まるッ!」
「ジャックさん、あれ!」
バランスを崩したが川縁に着いた。カボチャ男は水に片足を浸からせてしまったが、オタエは無事だった。ひと息入れる前にカボチャ男は河川を振り返る。上流から何かが流れてきているのが確認できた。助けに行こうとするが、男は足を止めた。素早くカボチャを脱ぎ転がし、オタエと向き合う。一瞬、躊躇ったが険しい顔をしながらもオタエの腰を抱き寄せ、もう一方の手で彼女の唇を割った。驚くオタエが声を発する間もなく男の唇が重なる。熱い舌がオタエのそれを嬲り、思考回路を溶かす。初めての感覚に舌が麻痺し、絡められた唾液がオタエの唇から溢れ出た。全身の力が抜け、男が離れるとオタエはその場にへたる。ぼんやりとした男の後ろ姿が視界に入った。水面の上を飛ぶ男は裸である。尻まで丸見えだ。瞬きを繰り返してみるが、やはり全裸だった。冷たい河の中へ飛び込み、犬を抱えながら水をかいて川縁に辿り着く。男も助けた犬も無事で、ほっと息をついたオタエだったが、何者かの視線を感じてそちらを見た。しかし、見慣れたものに遮られており、オタエはまた瞬きを繰り返した。男の着ていたスーツにシャツだ。ネクタイと下着まである。それらは、オタエを護るように壁になっていた。
この視線から護るためだろうか。オタエは服の隙間から林のほうを見た。暗闇に光る目がいくつもあり、こちらをずっと見ている。
「狼……?」
「いや、犬ですね」
と、男はオタエと同じように林に潜む犬を眺める。服の壁で胸部から下腹部は見えなかったが、素足だった。服の壁をよく見れば、靴下と靴まで壁になっている。足元には先ほどの犬は見当たらず、訊ねた。
「助けた犬はどうしたんですか?」
「帰って行きました」
朗らかに笑うが、その視線は犬に向いているままだ。
「この辺りは奴らの縄張りのようです。こっちを警戒してる。オタエさん、立てますか」
と、男は右手にカボチャを持ち、左手でオタエの腕を掴んで立ち上がるのを補助した。
「さっきの、マーキングだったんです」
男はオタエの腕を引き、壁を解除した服と彼女を背負って地面を蹴った。空高く飛ぶ。夜空は月が隠れ、小さな星がいくつも輝いていた。
「あなたを誰にも奪われたくなかった。なのに、俺が奪ってしまった。すみません、本当に」
全裸の男に背負われて背中越しに謝られ、どれから突っ込めばいいのかわからない。
「あの、寒くないんですか……?」
謝罪に対する返答がなく、男は拍子抜けた。
「え、怒ってないんですか」
「いいえ、それなりに怒ってます。でも、今怒ると危険でしょう?さっきも首締まるからやめてって言いながらバランス崩してたし……」
「だって、オタエさん、力強いんだもん」
いい大人の男性が少女のような口調だ。先ほどの研ぎ澄まされた真剣な様子と真逆でふにゃふにゃである。頼りになるのか、ならないのか、どっちなのだろう。でも、信頼している。でなければ、こうして身を預けたりしない。出会って間もないのに、何故か心から信頼できる。不思議だ。
オタエは、男の太い首に顔を寄せ、腕を巻き直して男を抱き締めた。
三つ目の町の中心部近くに到着し、いつも通り人気のない路地裏に下り立つ。カボチャ男の背から下りたオタエは、路地裏から広場を窺った。するとカボチャを脱いだ男に後ろから抱き締められる。
「またマーキングさせてください」
と、首筋に唇を押しつけられ、鼓動を跳ねさせたオタエは身を捩った。
「ちょっ、待って、ください……っ……」
「ダメです、待ってられません……」
と、今度は舌を這わせられた。男の唾液に濡らされた首筋がぞくりとする。胸がざわついて、変な声が上がりそうになるのを堪え、両手を握って背後の男の腹部に向かって両肘を強く打ちこんだ。
「ふぐゥゥゥ!!」
男はしゃがみ込んで痛がっていたが、すぐにオタエの足首を掴んで上へと引っ張り上げた。尻もちをつくと思ったオタエは目をつむった。尻に痛みを全く感じず、また、地面を直に座っている感じではなかった。おそるおそる目を開くと男にパンプスを脱がされているではないか。
「ちょっと、何してるんですか?!」
慌てたオタエは両足をばたつかせて男を蹴る。
「いだッ、ちょッ、オタエさん、落ち着いてッ、そんなアレじゃないからッ」
「はッ?!そんなアレじゃないって、あなた、急に発情してるじゃないですかッ!さっきのキスだって、私まだ怒ってるんですよッ!」
「いやだから、いでッ、これは別に発情してるわけじゃないんだってッ」
と、男に両足を捕らえられてしまった。また掴まれた足を引かれ、オタエはひっくり返ってしまうと目をつむる。が、男に背中を抱かれ、頭も背も打たなかった。よく見れば男は上着を着ていない。オタエの尻にそれが敷かれており、男は両膝をオタエへと寄せた。太腿の下に硬い筋肉質な膝が入る。身動きが取れなくなったオタエは口を噤んだ。羞恥でどうにかなりそうだ。緊張で下唇を噛む。
「さっきのキスは、本当にすみません。何も言わずにすべきじゃなかった。ただの野犬だったらマーキングは不要だった。だが、遠目じゃイヌ血族なのか野犬なのか見分けがつかなかった。あなたの匂いを手っ取り早く消したかったんです」
口づけられる前の男の表情から何か理由があるのだろうとは思ったが、そういうことだったのか。オタエは謝ろうと口を開いたが男に人差し指を唇に押し当てられた。男の唇は、しーっと言っている。声を発するのをやめたオタエは唇を閉じ、男は頷く。
「ここはイヌ血族の町です。話には聞いていたが、こんなにも状況が悪いとは思ってなかった。俺のミスです。あなたを連れてくるべきじゃなかった。今すぐにでもあなたを家へ帰したい。だが、俺はこの町の豊穣の鍋も食ってみたいんです。つき合ってくれますか?」
確かにこの町はオタエの町まで遠い。この時刻だ。一度、町へ帰ってこの町に戻ってくる頃には今日の炊き出しは終了しているだろう。
今までいろんな町へ行った。落し物に迷子の捜索、喧嘩の仲裁、食材調達の手伝い――様々なことを彼と共にした。嫌な顔ひとつせず、町の人々の声に耳を傾けていた。彼が何を見ようとしているのか、最後まで見届けたい。
「はい」
オタエは頷き、にこりと笑った。その笑顔につられた男もにこりと笑う。
「じゃ、遠慮なく」
と、耳に口づける。
「え、ちょっと、ジャックさんッ、だからなんでそういうことするんですかッ」
「マーキングです」
ちゅっと音を立てて頬に口づけられる。強引な口づけとは違うかわいらしい口づけだった。
「あの、どうしてマーキングが必要なんですか」
「ここ十年、イヌ血族間で感染症が流行ってる。それが原因で女性が早くに亡くなる。イヌ血族は女性が希少なんです。この町には他の血族はほぼいない。だから、女性は奪い合いになる。元々、縄張り意識の高い血族です。余所者を容易く受け入れはしない。しかし、この町に迷い込んでしまったら、女性は奪い合いになる。血族は関係ない」
男は苦虫を噛みしめたように険しい顔をした。
「……やっぱり、あなたを家に帰します」
思い詰めた男の表情にオタエは微笑んだ。男の唇に人差し指を当てて首を横に振る。
「あなたが、何を見ようとしているのか、見届けたいんです。だから、帰りません。あなたが護ってくださるのでしょう」
オタエの絶対的信頼に胸が熱くなり、男は目を閉じた。目頭が熱くなる。
「あなたを愛したい……」
切なげな声で告白され、オタエは胸を熱くした。目を開いた男は視線を落として乾いた笑みをこぼす。
「はは、すみません。こんな襲うかっこしときながら、何言ってんだって感じですよね」
と、オタエの右手を取り、手首の裏側を舐め、手首を返すと甲から腕へと舐め上げた。左も同様に舐める。次は首だと、男は顔を上げた。オタエの視線に気づいた男は目を合わせる。
「そんなふうに思ってくださるんなら、あなたのことを教えてください」
迷いのないオタエの声に男は苦笑した。
「きっと後悔しますよ」
「しないわ。知らないままでいるほうが、このままでいるほうが、きっと後悔する……」
涙を堪えるオタエの声が微かに震えた。男は正座し、オタエを膝の上に座らせた。首に男の舌が這う。鎖骨から顎へと舐め上げられる度、ぞくぞくとしたものが駆け上がる。唾液を塗りつけられて鳴る水音がいやらしい。オタエは上がりそうになる声が洩れないようにと唇を噛んだ。
「オタエさん、そんなに唇噛んじゃダメです」
優しい声に諭される。
「でも、変な声が……」
恥ずかしがるオタエがかわいらしい。男は、はにかんだ。唇を重ね合わせてすぐに離した。もう一度重ねてはすぐに離す。啄むような口づけを繰り返し、言う。
「キスしてもいいですか?」
確認され、オタエは目を丸くした。つい先ほどの口づけはなんだったのだろう。
「あの、キスなら、さっきからしてますよね……?」
「あんなのは挨拶です」
と、言った男の頬をオタエは右の親指と人差し指で強く挟んだ。男の口が縦に開く。
「どの口が『挨拶』だと言いました?」
「へ、なんれしょんな怒ってりゅんれすか」
「誰にでも『挨拶』するっていうことなんですよね?」
と、いうオタエの声は怒りが籠っている。慌てた男は言い訳した。
「違いますって、オタエさんを好きっていう挨拶で、社交的挨拶としての意味じゃないですって」
オタエの疑っている眼差しに、男は顔を緩めた。
「やきもちやいてくれてるんですね。嬉しいです」
と、微笑む。図星を差されて悔しくなり、オタエは男の頬を放して唇を重ねた。ぎこちなさに愛しくなり、男は口づけに応じた。オタエは、優しく甘い口づけにくぐもった声を洩らす。初めての口づけとまったく違うそれなのに、その時の感覚をよみがえらせた。自分の意志と反して胸がざわめき、舌が痺れる。唇を離されて切なさが募った。もっと口づけて欲しい。オタエが男を見ると、男も切なげな顔をしていた。胸が苦しくなった。どうしてそんな切なく寂しそうな顔をするのかは、見当がついている。引き止めようと名を呼びたいのに、彼の名を知らない。
「……」
オタエは開いた唇を閉じた。仮の名ではなく、本当の名を呼びたい。
「俺の唾液まみれですみません」
男はすまなそうに笑いながらオタエを先に立たせた。
「この町にいる間だけでいいんで辛抱してください。鍋、貰いにいきましょうか」
と、男は広場に向かう。
「カボチャ、被らなくていいんですか?」
「ああ、はい。俺たちが余所者であることはもう知られてるでしょう」
建物の屋上で何者かの気配を感じた。オタエが見上げると同時に何かが立ち去る。
「それに、すぐにまじないをしやすいし」
「まじない?」
「マーキングするなら匂いの強いものが適してる。唾液じゃ弱いですから」
と、男はオタエに振り返って続ける。
「精とか尿とかがいいけど、そんなのオタエさんにぶっかけられまッ目がッ、目がァァァァ!!」
下品な発言にオタエは人差し指と中指で男の目を突いてやった。女々しく泣き言を言いながら目蓋を押さえる男は鍋の匂いをたどりながら足を進める。
「やっぱオタエさんは容赦ねーなァ。そういうところ好きですけどね」
と、広場手前までやってくると足を止めた。
「俺はオタエさんから離れません。オタエさんも俺から離れないでください」
初めて出会った日に聞いたような、その気のない口説き文句にくすりと笑い、オタエは「はい」と返事した。
鍋の炊き出しに並ぶのもイヌ血族――。炊き出しを振る舞うのもイヌ血族――。オタエは警戒していたが、無事に鍋を貰えたし、特に何かを言われるでもちょっかいを出されるでもなかった。拍子抜けだ。男が言っていたことを疑っているわけではない。実際、町の広場で見かけるのは大抵男性ばかりだ。女性を見かけたのは数人にとどまる。しかし、他の町同様ににぎやかなハロウィンの雰囲気だ。町の様子を窺っていたオタエの横で、男はイヌ血族旧家の長い髪の青年と話している。
「そこの君!危なーいィ!!」
声が上から降ってきたと思いきや、男は蹴り倒され、その声の主に踏み抜かれた。黒い長い髪を後ろで結わえた眼帯の若い女剣士だ。オタエは跪いて男を気遣う。
「ジャックさん、大丈夫ですか!?あなた、いきなり何を……!……え?キュウちゃん……?」
女剣士を見上げたオタエは、それが旧友との再会だったことに驚いた。
彼女は、十年前、オタエの町へやって来て五年前まで近所に住んでいたキューベエ・デ・ヤギューである。眼帯で隠された左の目には、クラスメイトであったヒョウ血族からオタエを護った時に負った傷が残っている。
「オタエちゃん……?」
「若?今、オタエ殿って……」
男と話していたイヌ血族旧家の青年は、よく見ると知った顔だった。
「これはこれはオタエ殿、お久しぶりでございます」
と、アユム・トージョーの細い目が弧を描く。
「え、さっきまでオタエちゃんと話していたんじゃなかったのか、トージョー?」
「いえ、話していたのは今、若が踏んでる方です。まさかジャック殿のお連れ様がオタエ殿だったとは」
トージョーが話している間、キューベエの眉間に皺が寄っていた。オタエの匂いがしないのだ。確認をと、オタエの匂いをたどろうとするが、彼女の匂いは薄い。むしろ、踏んでいる男の匂いがオタエからしている。キューベエはオタエの手を取った。まさかとは思うが本人に確認する。
「オタエちゃん、ひょっとして、この男といい感じにアレしてきた後なのか?」
キューベエの大きな右の瞳は戸惑いで揺れている。
「いやねえ、キュウちゃん。そんなんじゃないのよ」
と、自分の手を握るキューベエの手をもう一方の手で覆った。
「しかし、オタエちゃん……」
会わなくなって五年経つが、それと同じ長さを教室や放課後で過ごした。オタエが真面目な少女であったことをキューベエはよく知っている。軽い気持ちで男と接触したりするはずがない。となれば、真剣交際ということになる。結論を出しておきながら、キューベエのはらわたは、踏みつけている男への嫌悪で煮えていた。美しく、清く正しいオタエに憧れていた。憧れ過ぎて友情なのか恋情なのか、自分でもわからないほどに好きだった。
剣術を教える父の転勤で町を転々としていたが、腰をぎっくりといわせてしまったのをきっかけに、故郷であるこの町に帰った。すると、原因不明の感染症が蔓延。それによってイヌ血族の女性は希少となり、剣術第一だった父によって男性のように育てられていたのにもかかわらず、女性らしくしろと言われて五年。ストレスフルだった五年。その五年の間に憧れの女友達は、美に磨きをかけて尻軽に変貌を遂げたというのか。そうは思いたくないのに、悪い方向へと考えが行く。
「何を泣いているのよ、キュウちゃん。そんなに私と会えたのが嬉しかった?」
優しく微笑むオタエに顔を覗きこまれ、キューベエは涙を次から次へと溢れさせた。
女性が少ないこの町の治安を魔族警備隊のひとりとして護ってきた。父の教育方針として男性のように育てられてきたが、その気心もぶれはじめていた時、気の許せる女友達と再会したのだ。こんなにも自分の心は脆かったのか。
キューベエは鼻を啜り、男の背中を踏んででも自分を抱き締めてくれるオタエの温もりに目を閉じた。心が安らぎ、涙が引いてくる。なのに、鼻水で嗅覚が鈍っていてもオタエから匂ってくる男の匂いが恨めしく、オタエに気づかれないよう、舌打ちをした。足蹴にしている男へ優越感を醸し出してやろうと目を開いて下を見た。が、男は足元にいなかった。自分を抱き締めているオタエの肩越しに男の背中を見る。
いつの間に抜け出したのだ。確かに自分は男を踏んだし、オタエも踏んだ。潰れた小さな男の呻きもその時に聞いた。その背中に注視する。男は高い建物の屋上を気にしているようだ。
キューベエには心当たりがあった。ある旧家で育った男が魔力に溺れ、暴走していると。旧家の男は若者たちを集め、日々、面白おかしく過ごしている。男は勘当されたが、この町から出すわけにはいかない。旧家の男のグループと警備隊の静かな牽制が続いている中、グループは遂に女狩りと称した危険な遊びを始めた。女性を生け捕り、魔力がより強い者の戦利品にするというものだ。女性に拒否権はあるらしいが、まったくの無傷ではいられない。女性にその気がなく、また意思が強いほど負傷するに至った事案が過去にあった。
キューベエは、頭を撫でてくれていたオタエに礼を言い、大丈夫だと微笑んだ。携えていた剣を抜いて男の背後から耳元へ剣先を向ける。
「遠足気分でこんなところまで来られちゃ困る。君は、この町の事情を知らないのか。いや、そんなはずはない。わずかな時間でオタエちゃんの町からこの町に来るくらいだ。知らないわけがない。何故、連れてきた。オタエちゃんを連れてとっとと帰れ」
剣を握るキューベエの目が鋭く光る。
「若!その方は……!」
「いいんだ、トージョー。僕だってバカじゃない。自分のやってることの意味くらい理解してる」
男は背を向けたまま両手を上げて言う。
「わかった。帰ろう。オタエさん、この一件が片づいてから帰りましょう」
「話をきいてなかったのか。帰れと言っている。今すぐ帰れ」
カボチャの魔法使い4(2)
Pagination
- ≪ Back |
- Next