「しかし、あちらさんは彼女を狙っている」
はっとした。確かにこの広場に感じる奴らの気配は落ち着きがない。このままオタエとこの男が町を去ろうとするなら、町を出る前にオタエを生け捕ろうとするだろう。こちらに背を向けたままの男は得体が知れないが、ここまで容易く来ることができるのだからイヌ血族の若いはみ出し者など足元にもおよばない魔族なのだろう。しかし、何が起こるかわからない。
「いいだろう。すべてが終わってから帰れ」
と、キューベエは剣を下ろす。
「だが、手出しは無用。内輪の揉め事だ。部外者はじっとしていろ」
キューベエの不躾な物言いにはらはらしていたトージョーだったが、彼を安心させようと、男は彼の肩を軽く叩いた。
「了解した」
と、男はキューベエに向かって微笑む。なめられていると感じたキューベエは苛立ったが、気持ちを切り替えようと深呼吸してオタエに向き直る。
「オタエちゃん、僕は君を護る。不本意だが、その男から離れちゃいけない。何があっても、そばを離れちゃいけないよ」
キューベエの真剣な眼差しにオタエは頷く。
「ええ、わかったわ。キュウちゃん、気をつけてね」
「ああ。オタエちゃんに勇気づけられたら、負ける気がしないよ」
緊張しているオタエの気をほぐそうと、キューベエは元気な笑顔を向ける。つられて笑うオタエがかわいらしかった。その笑顔を護ると心内で誓ったキューベエは踵を返す。
「トージョー、客人の警護を配備しろ。各隊に至急、配置に就くよう指示を出せ」
「はっ!総隊長!事件は広場で起きているジャック・ダブルオー・A(エース)ですね!」
「違うッ!AじゃないSだ!スペシャルだ!」
「はっ!総隊長!」
トージョーは胸元から無線機を取り出した。
「すごいわ、キュウちゃん。警備隊の総隊長さんだなんて……」
凛々しいキューベエの総隊長ぶりにオタエの目が輝く。
「そうですね」
と、男は自分の黒いネクタイをオタエの白いブラウスにかけた。
「いい剣士です」
ネクタイを締めてやってからいつものカボチャを被る。
「これは……?」
と、オタエはネクタイを手に取った。先ほどはまじないのためにカボチャを被らないと言っていたが、話が違う。
「まじないの代りのおまもりです」
ということは、マーキングはもうしないのだろうか。少しがっかりしたオタエは我に返ってぶんぶんと頭を振った。恥ずかしさで熱くなった顔を鎮まらせようと息を吐く。
「あ……じゃあ、始めからジャックさんの服を貸してもらえばよかったんじゃ……?」
オタエの呟きにカボチャ男は自分を抱き締める。
「オタエさんに服貸しちゃったら、俺、全裸でいなきゃいけなくなっちゃうじゃないですか。オタエさんの服のサイズ、俺着れませんよ」
「いえ、だから、私の服をジャックさんのサイズに変化させればいいじゃないですか」
「ああ、そういうことですね。それはできないんです。期待に添えられなくてすみません」
「そうなんですか……」
「自分の持ち物と契約するんです」
「え、それじゃあ、これ、貸してもらってもいいものなんですか?」
「はい。それくらいならすぐに返してもらっても問題ないだろうし」
男が微笑むとネクタイはまるで生き物のように動き出し、ひとりでにほどけてぱたりと動きを止めた。
炊き出しのテントを囲った私服警備隊の外側で制服警備隊が一般人を警護しながら繰り広げる逮捕劇は鮮やかだった。それを尻目に男は自らの手でオタエの首にかかっているネクタイを締め直す。
「俺の手を離れても、持ち物がどこにあるか把握していれば動かせる。だが、それも自分の魔力を感知できる範囲でのみです。その範囲外では物としてのあるべき姿に戻る。契約前のただの服に戻るんです」
そうだったのかと手元のネクタイを眺めながら感心するオタエに続ける。
「魔力は万能にあらず。魔力は無限にあらず」
オタエの視線がネクタイからカボチャ男の横顔に移った。
「限りある力は、自然の実りを摂りいれることによって自然に長らえる。豊穣の鍋を七晩食べれば寿命が延びると云われているのは、そういうわけです」
逮捕劇も終盤に差しかかろうとしている。テント端に設けられている飲食スペースからは、避難した一般人たちの野次が飛ぶ。
「しかし、不自然に作為的なものを摂取あるいは、自然のものでも悪い摂りいれ方をすれば、力は不自然に増大する。減少もする。また、暴れ出しもする。だから、君の町で起ころうとしていたことを止められてよかった」
確かに。あの鍋が無事で良かった。みんながそう思っていたし、自分もそう思ったうちのひとりだ。だが、ひとつ気になった。
「ええ。でも、来年もまたあなたが止めてくださるんですか?」
カボチャ男の顔が隣に座るオタエに向く。
「いろんな町の揉め事解決も気まぐれに手助けしただけで、来年は見知らぬふりですか?来年の今頃、すでに私は人間です。それでも、豊穣の鍋の食べ歩き弾丸ツアーに私を誘ってくださるんですか?シンちゃんが言ってたように、今年のハロウィン限定ですか?」
たったひとつ気になっただけだったのに、堰を切ったように溢れ出て、口を開くたびに気持ちが混ぜ返される。魔族の高位に立つ人物が何をするのか見てみたかった。けれど、それだけではない。今日を最後に約束がないことが、自分にとってこんなにも耐えられないことだとは思ってもみなかった。目の前で繰り広げられていた逮捕劇がいよいよ終幕すると、自分はあるべき場所へ帰される。今はまだこんなに近いが、カボチャ男は今夜のうちに自分の手の届かないところへ行ってしまう。それを以ってカボチャ魔法使いの魔法が解けるのだ。
オタエはカボチャの奥、男の目を見つめた。
緩く絞められたネクタイがほんのり温かい。魔力が注がれているのだろうか。先ほどは感じなかった優しい熱を首元と胸元に感じる。
ぎざぎざにくり抜かれたカボチャの奥の口が開いたところで男の肩口に鋭く銀色に光る剣先が向けられた。キューベエだ。
「そんな不埒な理由でオタエちゃんに近づいたのか。貴様も奴らと一緒に冷たい牢屋へブチこんでやろうか」
「若っ!」
男がオタエからキューベエへと振り返ると、キューベエは、くくっと笑って剣を鞘へ収めた。
「冗談だ。僕だってバカじゃない。そのくらいわかってる。それより……」
と、キューベエが片手を上げる。テント外で待機していた制服の警備隊が敬礼し、手縄をかけたグループのリーダー格の男を突きだした。
「オタエちゃん、どうする?今なら焼くなり煮るなり好きにできるよ」
警備隊は町の治安を護る。各隊を統括する総隊長であっても、その権限の私用は認められない。総隊長に相応しくない発言に、オタエ以外は皆、目を丸くした。微笑むキューベエにオタエは微笑み返す。
「精神的苦痛を与えられました」
と、オタエはにこやかに打ち明ける。
「なるほど。それは大変だったね、オタエちゃん」
オタエに笑顔を向けたままキューベエは再度、片手を上げた。警備隊員は速やかに被害届書を持ってくる。オタエへの聞き取りが始まり、リーダー格の男は連れて行かれようとした。
「待って、キュウちゃん」
「どうした、オタエちゃん?」
「その人がこうなってしまったのって、何かきっかけがあったのよね?」
「……不幸は誰の前にでも起こることだよ……」
と、キューベエは目を伏せた。
旧家の男の愛人の子であったリーダー格の男は、十年前に母親を亡くした。この仕事だ。不幸な境遇に同情していてはきりがない。
「そうね。でも……」
腰掛けていたオタエは立とうとするが、足が動かず俯いた。胸元のネクタイを手の平に掬う。
引っ越してきた当初、キューベエは自分の性別、振る舞い方に戸惑っていた。その頃はまだ剣術も始めたばかりでよく泣いていた。励まし、相談に乗っていたのはこちらのほうだった。なのに、今では勇敢で立派な剣士になっている。キューベエに負けていられない。
オタエは掬ったネクタイを軽く握って立ち上がった。足は、リーダー格の男へと向かう。
「オタエちゃん!」
慌てて後を追おうとするキューベエの前にカボチャ男の手が伸ばされた。制止されたキューベエは眉根を寄せ、オタエを見守る。
オタエは警備隊に囲まれる男の正面に立った。ネクタイを握ったまま息を吸って口を開く。
「気持ちわりィーんだよ。女を怖がらせて愉しんでるなんて男の風上にも置けねェーんだよ。それでも棒ついてんのかよ」
見事な悪態に周囲の空気が凍った。オタエはネクタイを離して軽く握った両方の手を両顎に添えてかわいこぶりっこをする。
「あっ、ごめんなさーい。あなたにもついてましたね、マッチ棒」
男の沽券に関わる貶され方に何も言えなくなった男は肩を落として自ら歩み出す。オタエはリーダー格の男の後ろ姿に向かって言った。
「私の家族はひとりです。弟がひとりだけ。その弟が人の道を踏み外したら、とても悲しい。生き急ぐことをしていたら、とても悲しい。あなたにいい人がいないなら、家族でもいい。家族がいないなら、いなくなった人でもいい。あなたにも大事な人がいるはず。その人に悲しい顔をさせないように生きて。じゃなきゃ、あなたもきっと笑えない」
歩みは一度も止まらなかった。心から思ったことを発したが偽善に終わってしまったのだろうか。自分が伝えたかったことは男の耳に届いただろうか。
オタエが不安げな顔でテントに戻るとキューベエは、にこやかに迎えた。
「やっぱりオタエちゃんはオタエちゃんだ」
「でも、ちゃんと伝えられたかしら……」
「あの男次第でしょうな。けれど、伝えようとすることが大事です」
と、カボチャ男は胸の前で両腕を組み、頷いた。
被害届書が完成するとキューベエは言った。
「しかし、オタエちゃん。少しくらい僕の身を案じてくれてもよかったんじゃないのか……」
「あら、いやだ、キュウちゃん。心配して欲しかったの?」
キューベエは頬を赤くしてこくんと頷く。
「やぁねぇ。キュウちゃんが強いのなんて私、知ってるもの」
と、オタエはころころと笑う。
「でも、僕、弱かったよ……」
「そんなの、剣術を習い始めたばかりの頃の話でしょう。引っ越する間際なんて、お父上の生徒さんをみんなコテンパンにのしてたじゃない」
「そう、だったかな……」
「ええ、そうでしたよ、若。『僕に触るなー!』って、剣にとどまらず総合格闘技でドコーンバカーンやってらっしゃいました」
トージョーの身振り手振りにオタエはくすくすと笑う。談笑する彼らの和やかな雰囲気にカボチャ男の心も和らぐ。目をつむり、心を決める。心内で頷くと帰宅を宣告する。
「オタエさん、そろそろ帰りましょうか。シンパチーノくんも心配しちゃいますし」
カボチャ男の言葉にオタエとキューベエは顔を見合わせた。束の間、寂しげな顔をするが、互いに笑顔を取り繕う。その絶妙なタイミングの合い方におかしくなり、ふたりは自然に笑い合って別れの抱擁をした。が、キューベエの笑顔がさっと消え失せる。オタエの肌から男の匂いがまだ残っていたからだ。
「いや、まだ帰らない」
起伏のないキューベエの声にオタエは困る。
「でも、明日は炊き出し当番だから、日が昇る前には帰っておかないと……」
「違うよ、オタエちゃん。オタエちゃんが帰ってしまうのは確かに寂しいし、できることならうちへ泊っていってほしいけど、そうじゃなくて……。オタエちゃん、君はあの男の匂いをぷんぷんさせたままシンパチーノくんにただいまを言えるのかい?」
と、キューベエはカボチャ男を睨んだ。はっとしたオタエは口元を手で覆う。
「キュウちゃんの言う通りね……」
「だから、オタエちゃん、僕のうちでお風呂に入っていってくれ」
「なんですってッ、若とオタエ殿が一緒にキャッキャウフフの入浴ぐゥゥゥ!!」
想像して興奮するトージョーの顔面にキューベエの拳が入った。また、見守るような位置にいながらも想像したらしいカボチャ男の喉仏が上下し、オタエはカボチャの鼻に拳を打ち込む。
「ぐふゥゥゥ!!」
勢いあまって石畳に倒れたカボチャ男は、肘をついて体を起こした。
「オ、オタエさん、俺まだなんも言ってなかったじゃないですかッ」
「まだ?まだってなんです?」
「あ……」
笑顔で揚げ足を取られ、カボチャ男は言葉を失くす。
「君たちは下半身でしか物を考えられないのか。男の風上にも置けない奴らだな。オタエちゃん、こんな下劣な奴らは放って、僕のうちへ行こう」
「そうね」
キューベエに手を差し出され、オタエは彼女の手を握った。置いて行かれたトージョーはカボチャ男に手を差し出し、男は腕を掴んだ。トージョーは男の腕を掴んで引き上げる。男が立ち上がるとトージョーは片膝をついて背を屈めた。
「数々の非礼、どうかお許しください」
「やめてくれ、トージョーさん。俺はただのジャックだ。ていうか、逆にアレだから、やめてもらえると助かるんだが」
と、カボチャ男は自分に集まりつつある周囲からの視線を気にする。
「はっ!」
と、トージョーは、さっと立ち上がった。
「では、参りましょう、ジャック殿!女子の入浴へ!」
「え……?」
「そこにキャッキャウフフがあるならば、どんな障害があろうとも行くのが男のロマンですよ!」
張り切るトージョーは駆け出し、カボチャ男は慌てて後を追った。
大理石の床を白く細い足が、ひたりひたりと行く。湯気が立ち込める浴室に備え付けの浴槽には赤やピンクの薔薇の花びらが浮かんでいた。豪華な風呂に豪華な御屋敷、ありとあらゆるものが豪華づくしだ。キューベエの父親は昔から派手好きだったが、それが窺い知れる。
「オタエちゃん、やっぱり、そのネクタイ外さないと洗いづらくないか?」
「うん……」
苦笑いしながらオタエは胸元のネクタイに視線を落とした。
「でも、お風呂の間、絶対ほどけないようにって魔法かけられちゃってるし……、首とか胸とか、洗おうとすると勝手に退いたりするから、まあ、問題ないかしら」
と、笑った。キューベエは殺気立った。五感を研ぎ澄ますが、男の姿も気配も感じない。見ているからネクタイが動いているというわけではないらしい。高度な魔法だ。あの男のネクタイは、身体の洗浄を邪魔することもなく、何かおかしな動きをすることもない様子だ。オタエの言う通り、放っておいても問題がなさそうだ。キューベエは、まじまじとオタエを見た。白い肌に黒いネクタイが目立つ。湯に濡れてオタエの肌に貼りつくと、いやらしさが際立つ。許せない。たかがネクタイだが、あの男のものだというだけで、オタエまであの男のもののように錯覚する。だいたい女性の首に自分のものをかけるなど、離れて行かないように首輪をするようなものだ。男の独占欲が強い。それだけオタエを愛しているというのか。
「オタエちゃん、いい人いるの?どんな人?」
薔薇の湯に浮かぶ動くネクタイをおちょくっていたオタエは、顔を上げた。
「ジャックはそんなんじゃないって言ってたから、別の人かな」
訊ねるとオタエは視線を落して、寂しげな顔をして俯いてしまった。不意に湯が微かに揺れる。ネクタイは浮いているだけで動いていない。
「オタエちゃん?泣いてるの?」
キューベエは、俯いたまま首を横に振るオタエの肩に触れた。
「オタエちゃん……、やっぱり、ジャックのこと……」
呟くように確認したが、オタエは首を横に振っている。
「どうしたの、オタエちゃん。君らしくないよ。オタエちゃんはどんな時でもいつも笑顔だった。人を好きになるんだ。きっといいことなんだろう?話を聞かせてよ」
顔を上げたオタエは瞳を潤ませていた。唇は左右に引かれ、泣くことも、言いたいことをも抑えていた。
「オタエちゃんがそんな顔をするなら、僕は恋なんてしないよ。だってそんなにも苦しいんだろ」
「そんなのダメよ、キュウちゃん」
「だったらオタエちゃんもダメだ。そんな顔してちゃダメだ」
「うん」
と、返事する声は震えていた。
ジャックとの出会いを語るオタエがかわいらしかった。彼といることがとても楽しいのだと伝わってくる。なのに、切なくなった。オタエの離れたくない気持ちが痛いくらいに理解できた。まるで自分のことのように錯覚する。
「ちゃんと伝えなきゃダメだよ、オタエちゃん」
「でも、言わせてもらえなかったら……?」
「それでも言うんだよ。ここであいつの言葉を持ってくるのは癪だけど、伝えようとすることが大事だって言ってただろ」
自分が言うとオタエは頷いた。
オタエの町からこの町へ引っ越す時、自分はオタエに気持ちを打ち明けずに別れた。心が未熟で自分の気持ちが自分でよくわかっていなかったのもあるが、一歩踏み出す勇気がなかったのだ。しかし、心と体が成長することによって踏み出せる強さを手に入れた。
自分はオタエに恋をしていた。ジャックの話を聞いて確信したのだ。皮肉ではあるけれど、それでいいのだと思う。もし、今でもオタエに恋をしているのなら、こんな気持ちにはならないはずだ。きっと、成長していく中で自分の恋は昇華したのだ。だが、今のオタエの恋は昇華させてはいけない。自分と同じで、彼女も一歩踏み出す強さを手に入れているはずだ。立ち向かう強さを持っていながら何も行動を起こさないでいれば、きっと後悔する。
風呂から上がったキューベエは、胸元のネクタイを乾かすオタエを眺めながら、先ほどの彼女を思い返す。
直接的な接触はなかったとは言え、はみ出し者たちに追われたのだ。その主犯の男の前に立つには勇気が要っただろう。傍にあった思いを握りしめて立ち上がったのだ。彼女にとって彼がいかに大事な存在であるか目に見えてわかった。そして、彼もまた、引き止めようとする自分を制止し、彼女の意思を尊重した。
「大丈夫。彼なら、ちゃんと聞いてくれる。オタエちゃんが信じてやらなきゃ、誰があの胡散臭いカボチャを信用するんだ」
泣き腫らした目でオタエは笑う。
「ふふっ、それもそうね」
今の自分の一歩は、オタエの背中を押してやることだ。キューベエの心は晴れ晴れとしていた。
はっとした。確かにこの広場に感じる奴らの気配は落ち着きがない。このままオタエとこの男が町を去ろうとするなら、町を出る前にオタエを生け捕ろうとするだろう。こちらに背を向けたままの男は得体が知れないが、ここまで容易く来ることができるのだからイヌ血族の若いはみ出し者など足元にもおよばない魔族なのだろう。しかし、何が起こるかわからない。
「いいだろう。すべてが終わってから帰れ」
と、キューベエは剣を下ろす。
「だが、手出しは無用。内輪の揉め事だ。部外者はじっとしていろ」
キューベエの不躾な物言いにはらはらしていたトージョーだったが、彼を安心させようと、男は彼の肩を軽く叩いた。
「了解した」
と、男はキューベエに向かって微笑む。なめられていると感じたキューベエは苛立ったが、気持ちを切り替えようと深呼吸してオタエに向き直る。
「オタエちゃん、僕は君を護る。不本意だが、その男から離れちゃいけない。何があっても、そばを離れちゃいけないよ」
キューベエの真剣な眼差しにオタエは頷く。
「ええ、わかったわ。キュウちゃん、気をつけてね」
「ああ。オタエちゃんに勇気づけられたら、負ける気がしないよ」
緊張しているオタエの気をほぐそうと、キューベエは元気な笑顔を向ける。つられて笑うオタエがかわいらしかった。その笑顔を護ると心内で誓ったキューベエは踵を返す。
「トージョー、客人の警護を配備しろ。各隊に至急、配置に就くよう指示を出せ」
「はっ!総隊長!事件は広場で起きているジャック・ダブルオー・A(エース)ですね!」
「違うッ!AじゃないSだ!スペシャルだ!」
「はっ!総隊長!」
トージョーは胸元から無線機を取り出した。
「すごいわ、キュウちゃん。警備隊の総隊長さんだなんて……」
凛々しいキューベエの総隊長ぶりにオタエの目が輝く。
「そうですね」
と、男は自分の黒いネクタイをオタエの白いブラウスにかけた。
「いい剣士です」
ネクタイを締めてやってからいつものカボチャを被る。
「これは……?」
と、オタエはネクタイを手に取った。先ほどはまじないのためにカボチャを被らないと言っていたが、話が違う。
「まじないの代りのおまもりです」
ということは、マーキングはもうしないのだろうか。少しがっかりしたオタエは我に返ってぶんぶんと頭を振った。恥ずかしさで熱くなった顔を鎮まらせようと息を吐く。
「あ……じゃあ、始めからジャックさんの服を貸してもらえばよかったんじゃ……?」
オタエの呟きにカボチャ男は自分を抱き締める。
「オタエさんに服貸しちゃったら、俺、全裸でいなきゃいけなくなっちゃうじゃないですか。オタエさんの服のサイズ、俺着れませんよ」
「いえ、だから、私の服をジャックさんのサイズに変化させればいいじゃないですか」
「ああ、そういうことですね。それはできないんです。期待に添えられなくてすみません」
「そうなんですか……」
「自分の持ち物と契約するんです」
「え、それじゃあ、これ、貸してもらってもいいものなんですか?」
「はい。それくらいならすぐに返してもらっても問題ないだろうし」
男が微笑むとネクタイはまるで生き物のように動き出し、ひとりでにほどけてぱたりと動きを止めた。
炊き出しのテントを囲った私服警備隊の外側で制服警備隊が一般人を警護しながら繰り広げる逮捕劇は鮮やかだった。それを尻目に男は自らの手でオタエの首にかかっているネクタイを締め直す。
「俺の手を離れても、持ち物がどこにあるか把握していれば動かせる。だが、それも自分の魔力を感知できる範囲でのみです。その範囲外では物としてのあるべき姿に戻る。契約前のただの服に戻るんです」
そうだったのかと手元のネクタイを眺めながら感心するオタエに続ける。
「魔力は万能にあらず。魔力は無限にあらず」
オタエの視線がネクタイからカボチャ男の横顔に移った。
「限りある力は、自然の実りを摂りいれることによって自然に長らえる。豊穣の鍋を七晩食べれば寿命が延びると云われているのは、そういうわけです」
逮捕劇も終盤に差しかかろうとしている。テント端に設けられている飲食スペースからは、避難した一般人たちの野次が飛ぶ。
「しかし、不自然に作為的なものを摂取あるいは、自然のものでも悪い摂りいれ方をすれば、力は不自然に増大する。減少もする。また、暴れ出しもする。だから、君の町で起ころうとしていたことを止められてよかった」
確かに。あの鍋が無事で良かった。みんながそう思っていたし、自分もそう思ったうちのひとりだ。だが、ひとつ気になった。
「ええ。でも、来年もまたあなたが止めてくださるんですか?」
カボチャ男の顔が隣に座るオタエに向く。
「いろんな町の揉め事解決も気まぐれに手助けしただけで、来年は見知らぬふりですか?来年の今頃、すでに私は人間です。それでも、豊穣の鍋の食べ歩き弾丸ツアーに私を誘ってくださるんですか?シンちゃんが言ってたように、今年のハロウィン限定ですか?」
たったひとつ気になっただけだったのに、堰を切ったように溢れ出て、口を開くたびに気持ちが混ぜ返される。魔族の高位に立つ人物が何をするのか見てみたかった。けれど、それだけではない。今日を最後に約束がないことが、自分にとってこんなにも耐えられないことだとは思ってもみなかった。目の前で繰り広げられていた逮捕劇がいよいよ終幕すると、自分はあるべき場所へ帰される。今はまだこんなに近いが、カボチャ男は今夜のうちに自分の手の届かないところへ行ってしまう。それを以ってカボチャ魔法使いの魔法が解けるのだ。
オタエはカボチャの奥、男の目を見つめた。
緩く絞められたネクタイがほんのり温かい。魔力が注がれているのだろうか。先ほどは感じなかった優しい熱を首元と胸元に感じる。
ぎざぎざにくり抜かれたカボチャの奥の口が開いたところで男の肩口に鋭く銀色に光る剣先が向けられた。キューベエだ。
「そんな不埒な理由でオタエちゃんに近づいたのか。貴様も奴らと一緒に冷たい牢屋へブチこんでやろうか」
「若っ!」
男がオタエからキューベエへと振り返ると、キューベエは、くくっと笑って剣を鞘へ収めた。
「冗談だ。僕だってバカじゃない。そのくらいわかってる。それより……」
と、キューベエが片手を上げる。テント外で待機していた制服の警備隊が敬礼し、手縄をかけたグループのリーダー格の男を突きだした。
「オタエちゃん、どうする?今なら焼くなり煮るなり好きにできるよ」
警備隊は町の治安を護る。各隊を統括する総隊長であっても、その権限の私用は認められない。総隊長に相応しくない発言に、オタエ以外は皆、目を丸くした。微笑むキューベエにオタエは微笑み返す。
「精神的苦痛を与えられました」
と、オタエはにこやかに打ち明ける。
「なるほど。それは大変だったね、オタエちゃん」
オタエに笑顔を向けたままキューベエは再度、片手を上げた。警備隊員は速やかに被害届書を持ってくる。オタエへの聞き取りが始まり、リーダー格の男は連れて行かれようとした。
「待って、キュウちゃん」
「どうした、オタエちゃん?」
「その人がこうなってしまったのって、何かきっかけがあったのよね?」
「……不幸は誰の前にでも起こることだよ……」
と、キューベエは目を伏せた。
旧家の男の愛人の子であったリーダー格の男は、十年前に母親を亡くした。この仕事だ。不幸な境遇に同情していてはきりがない。
「そうね。でも……」
腰掛けていたオタエは立とうとするが、足が動かず俯いた。胸元のネクタイを手の平に掬う。
引っ越してきた当初、キューベエは自分の性別、振る舞い方に戸惑っていた。その頃はまだ剣術も始めたばかりでよく泣いていた。励まし、相談に乗っていたのはこちらのほうだった。なのに、今では勇敢で立派な剣士になっている。キューベエに負けていられない。
オタエは掬ったネクタイを軽く握って立ち上がった。足は、リーダー格の男へと向かう。
「オタエちゃん!」
慌てて後を追おうとするキューベエの前にカボチャ男の手が伸ばされた。制止されたキューベエは眉根を寄せ、オタエを見守る。
オタエは警備隊に囲まれる男の正面に立った。ネクタイを握ったまま息を吸って口を開く。
「気持ちわりィーんだよ。女を怖がらせて愉しんでるなんて男の風上にも置けねェーんだよ。それでも棒ついてんのかよ」
見事な悪態に周囲の空気が凍った。オタエはネクタイを離して軽く握った両方の手を両顎に添えてかわいこぶりっこをする。
「あっ、ごめんなさーい。あなたにもついてましたね、マッチ棒」
男の沽券に関わる貶され方に何も言えなくなった男は肩を落として自ら歩み出す。オタエはリーダー格の男の後ろ姿に向かって言った。
「私の家族はひとりです。弟がひとりだけ。その弟が人の道を踏み外したら、とても悲しい。生き急ぐことをしていたら、とても悲しい。あなたにいい人がいないなら、家族でもいい。家族がいないなら、いなくなった人でもいい。あなたにも大事な人がいるはず。その人に悲しい顔をさせないように生きて。じゃなきゃ、あなたもきっと笑えない」
歩みは一度も止まらなかった。心から思ったことを発したが偽善に終わってしまったのだろうか。自分が伝えたかったことは男の耳に届いただろうか。
オタエが不安げな顔でテントに戻るとキューベエは、にこやかに迎えた。
「やっぱりオタエちゃんはオタエちゃんだ」
「でも、ちゃんと伝えられたかしら……」
「あの男次第でしょうな。けれど、伝えようとすることが大事です」
と、カボチャ男は胸の前で両腕を組み、頷いた。
被害届書が完成するとキューベエは言った。
「しかし、オタエちゃん。少しくらい僕の身を案じてくれてもよかったんじゃないのか……」
「あら、いやだ、キュウちゃん。心配して欲しかったの?」
キューベエは頬を赤くしてこくんと頷く。
「やぁねぇ。キュウちゃんが強いのなんて私、知ってるもの」
と、オタエはころころと笑う。
「でも、僕、弱かったよ……」
「そんなの、剣術を習い始めたばかりの頃の話でしょう。引っ越する間際なんて、お父上の生徒さんをみんなコテンパンにのしてたじゃない」
「そう、だったかな……」
「ええ、そうでしたよ、若。『僕に触るなー!』って、剣にとどまらず総合格闘技でドコーンバカーンやってらっしゃいました」
トージョーの身振り手振りにオタエはくすくすと笑う。談笑する彼らの和やかな雰囲気にカボチャ男の心も和らぐ。目をつむり、心を決める。心内で頷くと帰宅を宣告する。
「オタエさん、そろそろ帰りましょうか。シンパチーノくんも心配しちゃいますし」
カボチャ男の言葉にオタエとキューベエは顔を見合わせた。束の間、寂しげな顔をするが、互いに笑顔を取り繕う。その絶妙なタイミングの合い方におかしくなり、ふたりは自然に笑い合って別れの抱擁をした。が、キューベエの笑顔がさっと消え失せる。オタエの肌から男の匂いがまだ残っていたからだ。
「いや、まだ帰らない」
起伏のないキューベエの声にオタエは困る。
「でも、明日は炊き出し当番だから、日が昇る前には帰っておかないと……」
「違うよ、オタエちゃん。オタエちゃんが帰ってしまうのは確かに寂しいし、できることならうちへ泊っていってほしいけど、そうじゃなくて……。オタエちゃん、君はあの男の匂いをぷんぷんさせたままシンパチーノくんにただいまを言えるのかい?」
と、キューベエはカボチャ男を睨んだ。はっとしたオタエは口元を手で覆う。
「キュウちゃんの言う通りね……」
「だから、オタエちゃん、僕のうちでお風呂に入っていってくれ」
「なんですってッ、若とオタエ殿が一緒にキャッキャウフフの入浴ぐゥゥゥ!!」
想像して興奮するトージョーの顔面にキューベエの拳が入った。また、見守るような位置にいながらも想像したらしいカボチャ男の喉仏が上下し、オタエはカボチャの鼻に拳を打ち込む。
「ぐふゥゥゥ!!」
勢いあまって石畳に倒れたカボチャ男は、肘をついて体を起こした。
「オ、オタエさん、俺まだなんも言ってなかったじゃないですかッ」
「まだ?まだってなんです?」
「あ……」
笑顔で揚げ足を取られ、カボチャ男は言葉を失くす。
「君たちは下半身でしか物を考えられないのか。男の風上にも置けない奴らだな。オタエちゃん、こんな下劣な奴らは放って、僕のうちへ行こう」
「そうね」
キューベエに手を差し出され、オタエは彼女の手を握った。置いて行かれたトージョーはカボチャ男に手を差し出し、男は腕を掴んだ。トージョーは男の腕を掴んで引き上げる。男が立ち上がるとトージョーは片膝をついて背を屈めた。
「数々の非礼、どうかお許しください」
「やめてくれ、トージョーさん。俺はただのジャックだ。ていうか、逆にアレだから、やめてもらえると助かるんだが」
と、カボチャ男は自分に集まりつつある周囲からの視線を気にする。
「はっ!」
と、トージョーは、さっと立ち上がった。
「では、参りましょう、ジャック殿!女子の入浴へ!」
「え……?」
「そこにキャッキャウフフがあるならば、どんな障害があろうとも行くのが男のロマンですよ!」
張り切るトージョーは駆け出し、カボチャ男は慌てて後を追った。
大理石の床を白く細い足が、ひたりひたりと行く。湯気が立ち込める浴室に備え付けの浴槽には赤やピンクの薔薇の花びらが浮かんでいた。豪華な風呂に豪華な御屋敷、ありとあらゆるものが豪華づくしだ。キューベエの父親は昔から派手好きだったが、それが窺い知れる。
「オタエちゃん、やっぱり、そのネクタイ外さないと洗いづらくないか?」
「うん……」
苦笑いしながらオタエは胸元のネクタイに視線を落とした。
「でも、お風呂の間、絶対ほどけないようにって魔法かけられちゃってるし……、首とか胸とか、洗おうとすると勝手に退いたりするから、まあ、問題ないかしら」
と、笑った。キューベエは殺気立った。五感を研ぎ澄ますが、男の姿も気配も感じない。見ているからネクタイが動いているというわけではないらしい。高度な魔法だ。あの男のネクタイは、身体の洗浄を邪魔することもなく、何かおかしな動きをすることもない様子だ。オタエの言う通り、放っておいても問題がなさそうだ。キューベエは、まじまじとオタエを見た。白い肌に黒いネクタイが目立つ。湯に濡れてオタエの肌に貼りつくと、いやらしさが際立つ。許せない。たかがネクタイだが、あの男のものだというだけで、オタエまであの男のもののように錯覚する。だいたい女性の首に自分のものをかけるなど、離れて行かないように首輪をするようなものだ。男の独占欲が強い。それだけオタエを愛しているというのか。
「オタエちゃん、いい人いるの?どんな人?」
薔薇の湯に浮かぶ動くネクタイをおちょくっていたオタエは、顔を上げた。
「ジャックはそんなんじゃないって言ってたから、別の人かな」
訊ねるとオタエは視線を落して、寂しげな顔をして俯いてしまった。不意に湯が微かに揺れる。ネクタイは浮いているだけで動いていない。
「オタエちゃん?泣いてるの?」
キューベエは、俯いたまま首を横に振るオタエの肩に触れた。
「オタエちゃん……、やっぱり、ジャックのこと……」
呟くように確認したが、オタエは首を横に振っている。
「どうしたの、オタエちゃん。君らしくないよ。オタエちゃんはどんな時でもいつも笑顔だった。人を好きになるんだ。きっといいことなんだろう?話を聞かせてよ」
顔を上げたオタエは瞳を潤ませていた。唇は左右に引かれ、泣くことも、言いたいことをも抑えていた。
「オタエちゃんがそんな顔をするなら、僕は恋なんてしないよ。だってそんなにも苦しいんだろ」
「そんなのダメよ、キュウちゃん」
「だったらオタエちゃんもダメだ。そんな顔してちゃダメだ」
「うん」
と、返事する声は震えていた。
ジャックとの出会いを語るオタエがかわいらしかった。彼といることがとても楽しいのだと伝わってくる。なのに、切なくなった。オタエの離れたくない気持ちが痛いくらいに理解できた。まるで自分のことのように錯覚する。
「ちゃんと伝えなきゃダメだよ、オタエちゃん」
「でも、言わせてもらえなかったら……?」
「それでも言うんだよ。ここであいつの言葉を持ってくるのは癪だけど、伝えようとすることが大事だって言ってただろ」
自分が言うとオタエは頷いた。
オタエの町からこの町へ引っ越す時、自分はオタエに気持ちを打ち明けずに別れた。心が未熟で自分の気持ちが自分でよくわかっていなかったのもあるが、一歩踏み出す勇気がなかったのだ。しかし、心と体が成長することによって踏み出せる強さを手に入れた。
自分はオタエに恋をしていた。ジャックの話を聞いて確信したのだ。皮肉ではあるけれど、それでいいのだと思う。もし、今でもオタエに恋をしているのなら、こんな気持ちにはならないはずだ。きっと、成長していく中で自分の恋は昇華したのだ。だが、今のオタエの恋は昇華させてはいけない。自分と同じで、彼女も一歩踏み出す強さを手に入れているはずだ。立ち向かう強さを持っていながら何も行動を起こさないでいれば、きっと後悔する。
風呂から上がったキューベエは、胸元のネクタイを乾かすオタエを眺めながら、先ほどの彼女を思い返す。
直接的な接触はなかったとは言え、はみ出し者たちに追われたのだ。その主犯の男の前に立つには勇気が要っただろう。傍にあった思いを握りしめて立ち上がったのだ。彼女にとって彼がいかに大事な存在であるか目に見えてわかった。そして、彼もまた、引き止めようとする自分を制止し、彼女の意思を尊重した。
「大丈夫。彼なら、ちゃんと聞いてくれる。オタエちゃんが信じてやらなきゃ、誰があの胡散臭いカボチャを信用するんだ」
泣き腫らした目でオタエは笑う。
「ふふっ、それもそうね」
今の自分の一歩は、オタエの背中を押してやることだ。キューベエの心は晴れ晴れとしていた。
カボチャの魔法使い4(2)
Text by mimiko.
2015/10/31
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